元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

カテゴライズを異常に気にするヒトたち

本来の日記部分

情報にフタをしないでいると、毎日毎日、ひっきりなしにニュースが流れてきますが。。
そういうモノにいちいち自分の感想を持ち、コメントをつけて、二次情報として他人に流しているヒマはないだろう、と思いませんか。

アナタには時事問題より大切なものがあるだろう、と、言いたくなるヒトがいます。でも、自分はそんなに親切な人間ではないので言いません。。

こうありたいまたは反面教師

  • カテゴライズを異常に気にするヒトたち

最近、「カテゴライズ」についてふたたび考えるようになったのは、「ママさん軍団」の動向が非常に気になったからでして。。

彼女らは、異常に、互いを牽制しますね。
そして、異常に、他人の生活を気にしますし、さりげなく聞き出して、自分とその家族が相対的にどのレベルにあるのかを、判断し、安心したい。

あの軍団の動向を客観的にウォッチしていると、正直言って、反面教師として参考になります。


彼女らの最近の決まり文句は「セレブ」でして、誰かが「抜け駆け」して「お受験」を考えていることが発覚すると「あそこはセレブだから。。」というカテゴライズが始まります。

オモシロいのは、「あそこはセレブだから。。」のコトバは、「あそこはセレブ(つまり、本来の意味での「セレブリティ)ではない」という確信があるから言えるのです。
つまり、「あそこはセレブだから。。」はイコール「セレブでもないクセに。。」となりますね。

真のセレブリティが「お受験」を考えるのはあまりにも当然のことであって、牽制を入れる必要すらないのです。
また、やたらと他人の動向をチェックして、牽制を入れたがるヒトたちというのは要は自分と自分の家族に自信がないわけですから、真の意味での「セレブリティ」であるはずもなく。
そういうヒトたちは真のセレブリティに盲従します。牽制を入れるのではなく、揉み手をしてついてゆきますね。そういう傾向にあるヒトを見つけたら要注意です。


カテゴライズというのは、ひとつにまとめるわかりやすいコトバ(今回は「セレブ」)が流行ると、コトバだけでなくてカテゴライズそのものも流行(伝染?)してゆきます。

わかりやすいコトバ(略称)などに人間は飛びつきますね。。たとえば、「サーズ(SARS)」とか。。
コトバが、発音しやすくなると途端に流行します。エイズもそうでしたが、それがなんとか症候群のままであればゼッタイに拡がらない。


ところで、自分がなぜカテゴライズにこだわる、というか、不快感を感じるのか、というと、本来、他人をカテゴライズするのは非常に失礼なことだからです。

カテゴライズの源流は「差別」です。

「アイツは(あるいは、「あの家は」)○○だから」というのは、その「○○」がなんであれ、差別意識の表出に他なりません。

糾弾されるのはイヤなのでこれ以上は言及しませんが。。


そういうことを、ママさん軍団は平気でやるのです。オソロしいです。
サラリーマンもやりますけどね。

自分はカテゴライズされるのがホントにキラいなので、そういう集団に近寄らないのかもしれません。

  • 刹那的

痛飲するとか、カラオケするとか、暴食するとか、いろいろと「刹那的」なストレス発散方法があります。
それをやったとしても、全く根本問題は解決しないのですが。。

その、ストレス発散方法が、誰にでも適用できると思い込んで、「強要」するヒトがいますね。
それにはふたつの間違いがあって、まず、誰もが、酒やカラオケで瞬間的に発散できる種類のストレスを抱えているに違いない、という思い込み。
もうひとつは、誰もが、酒やカラオケを好き、あるいは「キライじゃない」に違いない(好きではない、と発言しているのは遠慮しているに違いない、と自分の都合のいいほうに考える)、という思い込み。


これも広義の「カテゴライズ」ではないでしょうか?
ストレス発散に「酒」や「カラオケ」というのはもう古すぎませんか。。 趣味が分散化されているように、ストレス発散手段も分散化されているのです。

そして、あるヒトにとっては、家に帰って何かすることがもっとも効果的なストレス発散方法なわけで(あるいは、家に帰るというそれ自体)、ストレスは「外」で発散するもの、と考えること自体間違っているというか、古すぎ、というか。。

流行には敏感なのに、そういったカテゴライズには妙に旧来手法に固執したりするわけです。


ストレスは「外」で発散するもの、と考えているヒトは、資本主義の餌食ですね。完全に「マスコミに洗脳完了されているヒトたち」に成り下がっているというか。。
そういうヒトにとってみれば、「外」ということはつまり、おカネを使うということとイコールであって、同じ「外」でも公園でくっちゃべることではないのでしょう。

なぜ、ストレス発散手段がイコール、おカネを使うこと、に収斂されてゆくのか? それは、庶民の財布のヒモをゆるませようと考えているヒトたちの情報操作が長けているからです。


私は、酒やカラオケより高度でかつより効果的なストレス発散方法を知っていますが、それを「強要」はしません。なぜなら、それは刹那的なものではなくて継続が要求されるからです。
ストレス発散方法を知りたがるヒトは、ほぼ100%継続はできませんから。

努力しないで痩せられる方法を知りたがるヒトと同じ人種です。


でも、ホントウは、もっとも効果的なストレス発散方法は、「ハナシをする」ことです。
ハナシをすること自体、全く、おカネはかかりませんが。。 問題は、その相手なのですよね。
相手を選ぼうとしてまたおカネを使ってしまう。そこにつけこむのが昨今の「スピリチュアルカウンセリング」系なのでしょうね。

相手は、家族でいいじゃないですか。ダメなんですかね?
すべてを肯定してくれないとダメなんですか? 「アナタは間違ってない」といってほしいだけなのですか?(であれば、確かに、おカネを払ってそれを「サービス」としてやってくれるヒトのところに行ったほうがいいのかもしれません)

ホントウにストレスがたまっているのであれば、それは「アナタ」もある程度「生き方」が間違っているからに決まっています。間違いを認め、ある程度は修正しなければなりません。また、その勇気を持たなければならない。

家族なら、それを指摘してくれるかもしれませんよ。でも、「アナタは間違っている」とは言ってほしくないわけですよね?
そういうヒトに対しては「カワイソウに。。」と思ってしまいますね。