生涯学習 自身のマイナーチェンジ イデオロギー
本来の日記部分
- カレンダー(予定の記入というよりはほぼ日記)
- 体調
頭痛2日目。今日は朝は調子よく、自転車で港区の検診に行ったのですが、排気ガスを吸ったら頭痛信号がやってきたような気がしました。
その後不調。午後からアタマがガンガンして、ダウン。
前にも書いたかもしれませんが、頭痛が続くと、恐怖なのです。
この頭痛が毎日続く人生というのは、耐えられません。自殺してしまうかもしれません。(なんちゃって)
それほどキツいものなのです。
- 仕事
明日(今日?)から新しい現場に出勤です。おそらく数ヶ月限定。
来年からは、現場に腰を落ち着けて、1〜2年はじっくり仕事に取り組みたいものですね。
ミチクサ(散歩、都市論etc)
- そんなに他人の生活を知りたいか
先日も少しふれましたが、他人の生活レベルを異常に気にするヒトたちが存在します。
自分は濃密な人間関係がイヤで東京に出てきたのですが。。
日本人は、「向う三軒両隣」という状況を何とかしよう、と考えて、「隣は何をするヒトぞ」状態を作り上げてきたのではないのでしょうか。
その反動がきているのです。
死、あるいは宗教に近い話
- 朝鮮半島情勢?
かつての朝鮮戦争を俯瞰してみると。。同じ民族が、それぞれ、他の国家(米ソ)にそそのかされ、民主主義と社会主義というそれぞれ異なるイデオロギーを注入され、近親憎悪関係になってしまいました。
つまり、イデオロギーによる憎悪というのは民族をも超えるということです。厄介ですね。。
それは、20世紀にはたまたまイデオロギーというかたちをとった宗教であっただけで、近代以前の社会では、民族をけしかけて戦争さすのに有効な手段は宗教だったのです。
過去の歴史をみると、宗教戦争というのは、何年、何十年と続きますよね。
だから、怖いのです、宗教というのは。それは、わかっているのですが。。
自分は、のめりこみはしないのだけれども、「宗教とはなんなのか?」を学んでみたいですね。「宗教学」を。
その理由は、もちろん、自分がよりよく生きるために、なのですが。。
「新興シューキョウ」と理論で対決できるようにするため、という側面もあるでしょう。
それと、「葬式仏教」すら自分の対立軸に入ってきてしまうかもしれない。
自分がこういう、世界に目を向けたことを考えるのって珍しいです。世界史選択じゃなかったですし。。
でも、宗教学を考えるのであれば必然的に世界に目を向けなければならないですよね。
人生観、のような、思想の話
「生涯学習」とやらが流行っていますが、ある程度歳をいってから学ぶ理由というのはすべて、自分がよりよく生きるためにはどうしたらよいか、の解を探すことに収斂されていくと思うのですが。。
何となく、今の日本の「生涯学習」の定義は、違ってきているような気がしますね。
お茶、いけばな、英会話などなど。。 すべて、各論に終始しているような気がするのです。
それらは、自分が「よりよく生きるためにはどうしたらよいか?」を必死で考え、その過程を経て各論に進んでいるのであればいっこうに構わないのですが。。
おそらくほとんどのヒトたちはそうではないでしょう。
ある程度歳をいったら、「いろいろチャレンジしてみたい」という考えでは、拡散してしまって、ぜんぜん満足感につながらないと思うのです。ひとつ、ふたつに絞らないと。
残された時間は、もうないはずなのに。。 歳をいっても、時間は無限に残されていると信じて疑っていないのでしょうか。
「いろいろチャレンジしてみたい」という考えそのものが、歳がいってからのシニアの「トレンド」に絡め取られてしまっているのです。シニアになってまで人生をトレンドに左右されていていいのだろうか。。
それが幸せ、というヒトもいるのでしょうが。トレンドに左右される、というのは若い生き方です。ですので、歳とってから若い生き方をすること自体に幸福感を感じる、ということなんでしょうかね。
ムカシの世代の方々で、若い自分に人生に選択肢が少なかったヒトが、その反動で「いろいろチャレンジ」に進むのであれば、わかるような気がします。
ですが、我々以降の世代は、若い自分にほぼ無限に選択肢を与えられた。そして大部分のヒトは選択肢の多さゆえに、絞ることができないままシニアになってゆく。若い自分に絞れなかったから、歳とっても相変わらず「いろいろチャレンジ」をするという構図は、間違っています。
若いとき「何でもできる」と思い込んで結局何もできず、そのまま、達成感のないまま歳をとってもずっと引きずり、結局、達成感を得るための方法論を持っていないからそのまま、何もできないまま死を迎える、という人間が、これから爆発的に増えてゆくのです。
私はすでに「気づき」はありましたので、そうはならないようにしよう、と考えています。
- カテゴライズについてふたたび(新語)
カテゴライズについて、つい最近まで考えていたのですが。。
このときは「セレブ」というコトバに異常なひっかかりをおぼえたのですが、もう少し考えを進めてみますと、結局自分が引っかかるのは「新語」なのですね。
何かをひとくくりにするコトバが生まれると、それに違和感を感じる。
その違和感というのは、カンタンにいえば「安易にカテゴライズするな!」という叫びなのでしょうね。
でも、なぜ新語が引っかかるのだろう?
たぶん、マスコミがアオるからだろうと思いますが。。
果たしてそれだけだろうか?
自分は、くくられるのがキラい、というのは確かにあります。
そして、自分たちの世代は幸か不幸か、「くくられなかった世代」であるといえます。
「団塊ジュニア」とか「新人類」とか「援交世代」とか。。
マスコミの異常なほどの洗脳強化の直前だったから、我々世代はくくられなかったのかもしれないですね。
今は、まずくくりますからね。
そして、おそらく私は、くくられることを積極的に求める世代がキラいなのです。
すぐにカテゴライズされたがる。
「個」がないのではないか?と考えてしまうのでしょうね。
自分について
- 自身のマイナーチェンジを楽しむ
ハナシが膨らむかもしれないので、ちょっと、書いておきます。
私は、自分が少しずつ変わり続けてゆくのを見て、楽しんでいるフシがあります。
たとえば、自分が宗教や思想に傾倒しつつあったり、節制したり、コドモ中心の生活になっていったり、自己犠牲の精神が芽生えたり、などなど。。
自分が変わってゆくのを見ることで、ストレス発散になっています。
客観的に見て、自分の変化は、おもしろいです。
変化というよりは「成長」でしょうか。
このストレス発散により、ぱーっと飲みにいったりとかたまに海外旅行に行ったり、など、ストレス発散を非日常に求める必要がないのかもしれませんね。
無限に変わらないように見える日常でも、変化をつけることは可能です。(身をもって実践しています)
それは、ハデさはありませんが、奥ゆかしく楽しいことです。
おすすめなのですが。。 ハナシが合わないヒトとは一生合わないような気もします。