元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

語録

stevengerrard.hatenablog.com

まだわかってない。。そろそろわかろう。

    • 二宮先生語録巻の3

【216】儒に仁義礼智信と曰(い)い、仏に空風火水地と曰う。
然るに仁と空とは則ち虚なり。
風火水地おのおの形有り。
あに列すべけん。
風火水地を合すれば、則ち空なり。
風火水地を去れば、則ち空無し。
義礼智信を去れば、則ち仁無し。
これを方灯に譬う。
木紙缸を合すれば則ち方灯。
木紙缸を去れば則ち方灯無し。

 

儒教では仁・義・礼・智・信といい、仏教では空・風・火・水・地という。
しかしながら仁と空とは実体がない。風・火・水・地はそれぞれ形が有る。どうして一緒に並べてよかろう。風・火・水・地を合わせれば、空となる。風・火・水・地を去るならば、空もまた無い。同様に義・礼・智・信を去るならば、仁は無い。これをアンドンに譬えてみよう。
木と紙と油皿を合わせればアンドンになる。木と紙と油皿を取り去ればアンドンは無い。

(引用終了)

この語録は僕にとってはすっと入ってきながらも深いところで理解できていないというか。。
(まだまだ僕が浅はかというか。。)

 

仁・義・礼・智・信および空・風・火・水・地において、「仁」と「空」はもっとも肝となる概念だということです。

行灯にたとえると、行灯という文明の利器の構成要素、部品は木と紙と油皿なわけでありますが、それぞれは行灯からみれば部品にすぎないわけですがそれらひとつひとつがものすごい発明というか。。
すごいものたちが部品として集まってはじめて、もっとすごい「文明の利器」ができあがる。

 

いや、違うな。。(上の記述、論述は恥ずかしくて消したいぐらいなのですが、後々の自分のために残しておきます)

行灯という文明の利器は、目をこらしてみると木と紙と油皿の集合体にすぎないのですが、これらの集合体を、人間の叡智によってうまーくかけあわせてあげると、行灯というすばらしい文明の利器が、できあがる。

で、その行灯という文明の利器は、木、紙、油皿という主要な要素どれが欠けてもできあがることはなかった、と。

そして、人間は「行灯」という利器を生み出したいがために、知恵をしぼって、木、紙、油皿をかけあわせた。そしてできあがったのが行灯です。

と、いうことです。