またまた「根源的な闇」「物語」について2
ところで、一般的な夢というのは、登場人物はほぼその本人の国のコトバでしゃべっている時点で、非常に現実世界に近いところにあります。「意識下」といってもよいでしょう。
ところで。。「意識」「意識下」の話でいえば、昨今は交通機関やメディアの発達により、地球の裏側と「イメージ」を共有したりすることが極めてイージーになっています。
ハナシ脱線しますが、youtubeなどは、全世界的にイメージを共有してゆくためのキラーアプリになり得る可能性を秘めています。googleおそるべし、といったところですが、googleこそが確かに少しずつ、意識的に「神」の領域に近づいている感はありますから、超近代の一神教にはなりうるかもしれませんね。
意識上でイメージを共有したいというのは全人類の根源的な欲求だったのか。。
「根源的な闇」からイメージを取り出す(あるいは「連れ戻す」?)のが、祈祷師などの選ばれた人間だったのだとすれば、誰もが「世界」を共有できる手段を、選ばれない人間が欲するのは当然といえば当然でしょうか。
その欲望の結実として、現代社会では衛星生中継で「世界の果て」を共有できるようになり、そこには光の速さでメールが届きます。そしていずれはリアルタイムで、(双方が望めば)テレビ電話による会話ができるようになるでしょう。
それの良し悪しというのは、論を待たず、人類にとってはとても良かったはず。なぜなら、それが人類が望んでいたことだからだよ。
いや、「人類」というのは大仰なんだな。。 望んでいたのは一部の産業革命を経験した国に限られるから。
未開民族はそんなものは欲しくもなかったのでしょう。
ただ、意識上で誰もが「世界」を共有できつつある昨今でも、意識下の、無意識のさらに下に広がっている共有の「世界」、ここで書いている「根源的な闇」へアクセスしたい、という需要は未だにあります。
それは特に、臨床心理学あるいは「セラピー」などの世界で。
村上春樹氏の「ねじまき鳥〜」に出てくる「壁抜け」の技術のような。。
ヒトは果たして「根源的な闇」すら支配することはできるのか?
などと一瞬考えてしまいますが、それが愚問であることは明らかです。
ヒトは自分の認識している範囲しか自分の「モノ」にすることはできない。
その「認識している範囲」は可変ですが、生来決まっているキャパシティが大部分です。