元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

引用


2012-07-06 - 【ひとり公論】([新庶民]論)

以下、中村とうようさんの1975のエッセイ

(略)彼(山城祥二くん)もぼくも、麻雀だのポーカーだのにゼンゼン興味がない。(略)勝負への執念など少しも湧いてこない。バカバカしくって本気でやろうという気持ちになれないのだ。これは、平和主義で人と争うのを好まないからなのではない。(略)山城もぼくも(かもめの)ジョナサンだからであって、勝負ごとというのはミナサンのやるものなのだ。

山城くんにしても、ぼくにしても、世の中がどうなっていて、今どんな問題があって、これからどうなるかということは、根本的には全部わかってしまっている。そして、そういう世の中で、自分が現在、そして将来、どう生きるべきかということも、確信をもって、わかっている。こういうわれわれのような人間にとっては、自分との戦いはあっても、他人との競争なんてものはあり得ない。世の中と自分との関係がわかってない人は、自分を自分のまわりの人々との比較でしか捉えることができないから、どうしても人に負けまいと競争し勝負する気持に追いやられる。(略)そういう人は競争相手がいなくなるとトタンに勉強しなくなったり働かなくなったりしてダメになる。競争がクセになって、生存のためのやむを得ぬ戦い以外のスポーツや遊びさえも買った負けたの要素がないと一生懸命になれないのだ。

(略)ぼくや山城くんは(略)他人との競争などに関心はない。戦うべき対象は自分自身しかない。つまり、自分はこう生きるべきだ、と考えているその生き方から外れないように生きるために、自分と戦うのである。それさえも必要なくなったら聖人であり仏であって、もはや人間の境地を超えてしまっているだろう。

(略)オレは(かもめの)ジョナサンだから他人など眼中にない、と言ったからって、他人をバカにして見下しているわけではない。ただ自分は自分、他人は他人でまったく行き方が違って当たり前だと割り切っているので、同じルールを与えられて勝負するなどという気には金輪際なれない、と言っているだけだ。

(略)ぼくが自分をエリートのジョナサンと考えているとしても、それは生まれつきの家柄とか天賦の才能を自慢しているのとはちょっと違う。ぼくは選ばれた人なわけでは決してない。ぼく自身がエリートとして生きる道を選んだのである。この選択は誰にでもできる。他人との競争に気をとられるのをやめて、自分と世界との関係だけを考えるようにさえすればいい。