元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ケイゾク


2012-05-07 - 【ひとり公論】([新庶民]論)

誰に請われたわけでもなく、自分でやると決めて続けている「日課」が、自分を強くする。

それ(日課をつくりだすことと続けること)は自分を映す鏡でもあります。

まず、凡人というのは誰かに請われるまで自らに課を課さない。

凡人から脱しているヒトは、自らの意志で、自らに課を課すことができる。超人は、自らの意志で、凡人にはとうてい不可能な課を設定し、しか もそれを毎日続けることができる。

ですので、凡人と超人とでは、とてつもないスピードで、人生における差が開いてゆきます。

何が開いてゆくか、といいますと、個々の人生における満足感であったり、他人の評価であったり、様々です。

人間というのは、「世の中」という他人に暗黙のうちに請われて、いろいろな日課をこなしているものです。たとえば時間までに職場へ出勤する とか、マナー・エチケットのために身だしなみをととのえるとか、歯を磨くとか風呂に入るとか、すべてそうです。

それでも、廃人のように毎日を過ごす最底辺層の人間よりはよっぽどよいのですが。。

すべてにおいて「やらされてる感」を払拭できません。

ですからまずやらされているのでない何かを見つけて、始めて、継続すること。

 

僕は、その、超人、あるいは超人に近づいてゆくヒトたちと、グータラと過ごしていた自分との差の開き方に対して、恐怖感をおぼえたもので す。

先天的には何ら差がないにも関わらず、後天的な、「ケイゾク」の能力の差により、こんなにも離れてゆくものなのか、と。。

でも、そこで「恐怖」という感情を得ることができた僕は、幸せでした。ココロから、「このままではヤバいかも」という気持ちになることがで きたから。

 

いつの時代もいわれているとおり、「人生一度きり」なのです。

いつの時代もいわれているのだから、これは間違ってはいないのです。

輪廻転生とかいう概念を鵜呑みにしてはなりません。人間が生まれ変わるのかどうかは知りませんが、生まれ変わったって過去の記憶が残ってる わ けではないのです。自分の「意志」(のようなもの)が今、この自分の身体を結合して発生している自分の人生というのは、どう考えても一度きり であって、さ らに、この人生は「ケイゾク」により後天的にどうとでも変えられるのです。

まずはそれを知ること。

自分が変われば、周りも変わってゆく。自分が良き方向に変われば良き出会いもあります。いつかは。

自分が変わるためには、最初のハナシにもどって、どんどん、やらされてる感のない「課」を自分に課して、ケイゾクすること。

その課によって自分の時間を埋め尽くしてしまって、やらされてるほうの課を凌駕してしまうこと。ルーティンにしてしまうこと。

アソばなくたっていいのです。アソぶ時間がないとボヤくヒトになってはいけません。

その、ケイゾクしているルーティンこそがアソびなのですから。いえ、それをアソびにしなければなりません。そのためには、人生そのものを 「やらされてる」感をなくすこと。