元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

考えることを絞る

考えることを絞る

たとえば、「オレはおカネがほしいんだから」と、まず直接的にカネもうけについて考えることも、人生のある時期においては必要でしょうね。

ヘンに善人ぶって「おカネのことから逃げ回っている」(by糸井さん)よりもよっぽどよいです。

「おカネがすべてじゃない」と自分に言い聞かせなければ生きていけないヒトほど、拝金主義に侵されていますからね。

斎藤一人さんは、「仕事のことばかり考えていればいい」と書いています。(一字一句同じではありませんが)

なぜ、仕事も大事、アソビも大事、と、思考を分散させてゆく必要があるのか、と。仕事のことだけ考えている人間がビジネス・シーンで勝利するのはアタリマエである、ということですね。

それと似たような感じで。。たとえば儲かりそうなビジネスに柔軟に資金を集中させてゆくように、「思考」も集中させてゆくのがよいのでしょう。ただし、それは人生におけるある一定時期だけでもかまわないのです。思考を一点に集中させ、時期も集中させ。。ということです。

で、自分が今考えているのは、とにかく「よりよく生きるためにはどうしたらよいか?」ということについて常に考えていよう、そこに意識を集中させよう、としています。

「おカネ」に関しては、言い訳させてもらえば、包括的にそこに含まれてきます。そして、おカネについては、もう少し経ったら考えます。(今はねかせている状態)

今、「よりよく生きる」に思考を集中させることにより、物欲と、精神的な充足感と、どちらもゲットできるかもしれない、とムシのいいことをホンキで考えています。

ほとんどのヒトたち、すなわち「庶民の総体」は、この高度資本主義社会で、マスコミの巧妙なプロパガンダにより、物欲に呑みこまれてしまっているわけで、そのギマンにだいぶ前から気づいている自分は、おそらくそうはならない。なぜならば、そういう物欲に呑みこまれている庶民を高みで見物してほくそえんでいる「層」がいるに違いないと思うと、心の底からハラが立ってくるからです。そんな「層」に馬鹿にされたくはありませんからね。

物欲に呑みこまれないと誓ったからこそ、自分には「よりよく生きる」権利が与えられたに違いない、と自負しているわけです。(それを「傲慢」ととる方もいますでしょうが、まあそれはおいといて)

物欲に呑みこまれていない時点で、この資本主義社会においては「けっこうガンバってる」といいますか。。ある程度「よりよい生き方」にはなってるはずなんですよね。

それでまァ、これからどうするか、なのですが。。「毛坊主」ですからね、出家もしたくないですし、カネとモノにまみれて生きるのもイヤですし。。 そのあたりの、この大都会でカネとモノとつきつ離れつのほほんと生きる手段、といいますか、俗世間にどっぷり漬かりながらも距離をおく奇跡的なバランスの手法とか、そういうところを、実践しながら見出してゆきたいのです。