明恵「阿留辺幾夜宇和」の解釈
「阿留辺幾夜宇和」
物事はあるべきようにあるべきだ、というのはわかります
でも、自分の「あるべきよう」とは?
それが見つかったらもうそうあるべきと邁進するのだろうけども。
あまりでしゃばらず、庶民の域を出ず、というのが「あるべきようわ」の基本線なのだと思います。
でも、もちょっと具体的にほしい。
自分はどうあるべきなのか? と。
それは、ずーっと探しています。
それは、いわゆるムカシ流行った「自分探し」という言葉になってしまうのですが。。でもそれは違うと思います。
前にも書いたように、僕は「自分はとっくに見つかっている」というスタンスです。
自分の「あるべき」がわからないだけなのです。この違いわかりますか?
もっとカンタンにいえば、近い言葉は「天職」かな、と。
言い方を変えると自分の天職がわからなくとも「自分そのもの」はわかります。つまり、自分の天職がわからずとも「自分探し」は終えられます、とい うこと。
自分は「どうあるべき」というのは、走りながら。。
結局定義はできずに、自分の足跡が証明する、ということなのですよね、たぶん。