「人生設計」批判
こうありたいまたは反面教師
- 「人生設計」批判
人生設計というのは、そもそもハード面(特に、家とか、どの会社に勤めるかとか)だけではないのです。
おそらくもっと大事なのはソフトの面です。
カンタンにいえば、自分は「どうありたいか?」みたいなことです。
「どうありたいか?」と問われたときにハードの方面にしか結びついていかないのが、問題なのですね。
コドモが、「将来何になりたい?」と聞かれたときに、パイロットでも公務員でも何でもよいのですが、「職業」でしか将来像を描けないのと似ています。
オトナになり、「職業」という属性が自分にセットされてからの「将来何になりたい?」には、どう答えるか? まだ職業に拘泥しますか? 「実はパイロットになりたかったので、まだ目指しています」と。
僕は逆に、ずーっと、「どうありたいか?」というソフト面での人生設計を考え続けてきました。深く、強く考えてきたという自負はあります。
後ろ指もだいぶ指されていたように思います。それでも、つづけました。
もちろん、そのおかげでハード面での人生設計はおざなりにしてきました。おざなりにしたつもりはないのですが。。
「おざなりにして!」という批判を、受けてきましたので、まわりからみたらおざなりにしてきたということなのでしょう。
僕にとっては、「優先度低」だったということです。
まずハードありきでソフトを考えるのではないのです。まず、どうありたいか? が根幹にあって、そこからハードを考えるべきなのです。
と、主張したところで、数年前まではほとんど理解はされませんでしたが、今ではどうでしょうね。世の中の趨勢は少しずつ、変わってきているかもしれません。
そういう主張をしたときに「いや、それはわかるよ、でもね。。」というふうにオトナぶって「理想と現実」を出してくるヒトを、ムカシはまったく信用できませんでした。
たとえば、この日記で何度も書いているとおり、僕は、通勤ラッシュがホントウにキライであるがために、借金をしてまで都心の狭いマンションに越してきました。
だから、郊外に立派な家を建てて中流を謳歌しているヒトたちが、「通勤ラッシュイヤだなあ」とグチをこぼすのがホント、許せなかった。「そんなの覚悟の上で家買ったんだろ? なんで今さらグチをいうのか?」と、つっかかっていったこともあります。
これこそ、さきほど書いた「ハードが先か、ソフトが先か」の典型的な例ですね。
グチを言い出すぐらいのヒトは、「理想と現実」を持ち出してきます。
ムカシは、世の中そういうヒトが多かったので、ムカシはほとんどのヒトを信用していなかったということになります。
今は違いますが。。
グチを言わないヒトは、郊外に家を建てたことを間違っていないと確信があるのでしょう。そういうヒトは評価できます。「理想を現実」にしているからです。
そしておそらく、グチを言わないヒトは、ソフト面での人生設計も、できているはずです。だから、僕の違和感アンテナには引っ掛かってきません。