元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

現代版「コトバ狩り」のゆるやかなつづき

my格言・my座右の銘(自作自演)

  • 「自由」をはき違えているヒトは信頼を失う。(20080814)

人生観、のような、思想の話

  • 現代版「コトバ狩り」のゆるやかなつづき

発するコトバは、常にポジティブであるべきです。

たとえば、ツラいときにもグチや不平をいわず前向きなコトバを発します。そういう生き方を実現するのであれば、そもそも思ったことをストレートに口に出してはいけない、ということになります。
この現代社会を生きるにあたり、「思うこと」というのは実はほとんどはネガティブなことです。

それが、何か悪いのでしょうか?

そして、僕らの下の世代はどうやら、思ったことはそのまま口にしていいんだよ、みたいな教育を、受けてきたらしいです。(詳細はわかりませんけども)


ただし。。「グチや不平」はネガティブでダメなのですが、「主張」は構わないのです。
このあたりの加減がムズカしいところで。。

ネガティブなコトバを全面禁止にしてしまうと、昨今の世相では、いいように操られたり騙されたりしてしまいます。つまり、ナメられてしまうのです。

ネガティブなコトバを発しない、というのは、なんでもかんでもいいよいいよ、と他人の考えや申し出やお願いごとを受け入れることではありません。

イヤなことは「イヤだ」と主張するのです。それも(できれば)笑顔でです。
「なぜならば〜」(理由)をすぐに続けられれば、なおよいです。もちろんそれも笑顔で。


下の世代は、イヤなことはイヤだと、けっこう主張はします。
でも、「主張」と「グチや不平」を同じ位相で考えているフシはありそうです。

上司の世代がおおいに間違っているのは、「ネガティブなコトバ」とともに部下の「主張」までも耳を貸さないということです。
レベルの低いマネージメントにおいては「ネガティブなコトバ」も「主張」もいっしょくたにされてしまう。
それでは部下は育ちません。

何かに書いたような気がしますが、「オレはメンバーからの良い結果報告しか聞かない」という姿勢を明確にしている「上司」さんはたくさんいますが、この姿勢はサイアクといってよいでしょう。


斎藤一人(ひとり)さんは、イヤな場からは離れてもいい、という考え方で、僕もおおいに賛同しています。
参考にすべきは「君子の交わり」です。

イヤなことを依頼されそうな「場」からは、離れてもいいのです。
それによって仲間なりトモダチを失ったりしてもいっこうにかまわないのです。自分を不快にする可能性が高い友人知人は果たして近くに必要なのでしょうか? 

斎藤一人さんは、家族ですら、常に交わっている必要はないといっています。特に、嫁姑などが典型的です。家族幻想にとらわれて無理やり3世代で住まう必要はないのです。

そして、ホントウであれば、イヤな職場からも離れてもかまわないのでしょうが。。
それはなかなかムズカしい。

でも、ただイヤだというだけでなく、がんばるべきです。がんばった結果としてやはりイヤなのであれば離れるべきでしょう。

職場には必ず、イヤになるぐらい波長の合わない人間が、しかも複数いますが、自身がその現場で頑張って成果を出して認められれば、そういう合わない人間と「君子の交わり」状態を保つことは、可能です。

イヤだイヤだとサボタージュばかりしていると、もちろん成果もでないですし、波長の合わない人間を呼び寄せることになり、悪循環にハマっていきます。


発するコトバをすべてポジティブにする、というのはつまり、ポジティブに生きるということです。
言い方を変えれば「発するコトバをすべてポジティブにする」とはポジティブに生きるためにもっとも有効な手段です。


ヒトの(悪意があるかもしれない)頼みや申し出を、いいよいいよと安請け合いするのは、単なる「従属」であって、そもそもポジティブな生き方ではないでしょう。

ポジティブだからこそNoと言えるのです。そしてNoと言える確固たる根拠があるはずなのです。ポジティブであれば。

自身をネガティブにしてしまうような波長を発しているモノ、コトには自分は与しない! というのが、確固たる根拠です。
あとはそれを丁重に、笑顔で相手に伝えればそれでいいのです。(それがムズカしいのですが)