元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

イッショウケンメイ

my格言・my座右の銘(自作自演)

  • 「お洒落」とは「個性的」ではない(20070403)

こうありたいまたは反面教師

  • イッショウケンメイ

ほぼ日刊イトイ新聞では「チャレンジ」を打ち出しており、自らそれを「似つかわしくない」と言い訳しながらやられているようですが。。
ところで僕も、「イッショウケンメイガンバる」とか、そういう類のコトバは相当「ダメ」でした。
キライというわけでもなかったのです。あこがれはあるけれども「ダメ」。ちょっとした「卑下」も入りつつ。

でも今はゼンゼンオッケーですね。それはなぜかといいますと、「イッショウケンメイガンバる」イコール「継続」だと確信しているからです。
鼻息荒く「ガンバる!」のポーズを決めてみたところで、続かなければ何の意味もない。

これは「ドリョクする」もそうなのですが、ドリョクするとかガンバるとかいうのは「ムリをする」ことであって、「ムリのない程度に」「ガンバる」あるいはドリョクするというのは定義矛盾なのです。

段階でいえば、「鼻息荒くガンバる!」を継続するのは、一般人はほぼムリです。

鼻息荒く「瞬間的に」ガンバる、というのは、いわゆる「アメ」さえあれば誰でもできます。(つまり、モチベーションの操作により可能)
そして、その日その日はムリのないように見えるが(1日5分とか)それを継続してゆくことは、瞬間的に高い負荷をかける(そこで終了)よりも何千倍もムズカしいことです。

「ムズカしい」の証左としてほとんどのヒトはその継続ができません。たとえば「運動しなきゃ!」とスポーツクラブの会員になって、1週間ぐらい負荷かけてガンバってみる(でもそこで終了)というのは誰でもできます。
それが、スポーツクラブに、どんなに忙しくとも週に必ず1回はくるようにする、というのを1年続けるとなれば、何パーセントのヒトが残るか? それが3年になればどうか?

瞬間的な「ガンバり」は実は頑張りではない。継続こそ「努力する」や「頑張る」と定義付けできる行為です。

ところで、1日1日の負荷は小さく、かつそれすら継続できない、というのは、論外でしょうね。。


先日も、毎週楽しみにしている内田博史さんの日記にそのようなことが書いてあったのです。
皆からスゴいといわれているが、実際に会うとまったくカリスマのオーラを発していないヒトがいたそうで、「あのヒトの何がスゴいのか?」とたずねたところ、「あのヒトは単調で退屈なことをとにかく淡々と続けられるんだ」と。(詳しい本文はわすれました)

これはトレーダーのハナシですが、僕もその方面の才能はありそうなので、僕がトレーダーになってもイケるかも。。

再録

日経情報ストラテジー・メール 2007/03/14
o ビジネスパーソン必読! 『こころ』のマネジメント教室
(略)
コドモのイジメとかそれによる精神的ストレス、病気ばかり取りざたされていますが、サラリーマンが会社のパワー・ハラスメント等等(「仕事であればなんでもできる」という間違った考えにより発生する)で受けるストレスは、コドモのアソビの比ではないのです。ましてや主婦をキッチン・ドランカーに陥れる孤独や自己不満足感のプレッシャーなどは、外で「7人の敵」と日々闘っているサラリーマンのプレッシャーに及ぶべくもないのです。