元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

口をふさいでいてはいけない

自分について

  • 口をふさいでいてはいけない

誰かが書いていた(河合隼雄先生だったか?)、口のきけないヒトがいつもニコニコしていたら、聞き手として相談を持ちかけられるようになり、やがて健常者の「おごり」からグチの吐き先にさせられてしまい、結局はそのヒトはすべてを受け入れて、どこへも吐き出せないまま自殺してしまう、というハナシ。。

僕は、だいぶ長く入院していたことがあって、似たような状況を感じたことがありました。お見舞いにきてくれるのはすごくうれしいのですが、なんだかみんな職場やら家族やらのグチをこぼしてゆく。。でもこちらは、ハナシをしにきてもらうだけでうれしいわけで、終始「見舞いにきてくれてありがとうスマイル」でいなければならない。逆にこっちが気をつかって。「病状は?」って聞かれたら「ゼンゼン大丈夫!」なんていわなきゃならないような空気で。「ちょっとキツい」なんていった日には、ウワサが尾ひれをつけて飛んでいく。。

あれはなかなかビミョーな状況ではありましたね。ココロから見舞い客を求めているのに。。きてもらったらもらったでかすかに不快な感情が残る、という。

仕事では口はふさいではいけない、といういましめだと考えています。

再録

ホントの下町というのは、たとえば石原とか亀沢あたりが近いと思っています。無機質に舗装されていて、けっこう家は密集しており、のっぺらーとしていてそれほど個性はない。そして、繁華街にはそれなりに近い。

ボキャブラリーが貧弱なのですが。。

マスコミが作り上げた下町という虚構は、ゼッタイに間違っているというのは自明です。「人情が残る路地裏」とか。。 ホントウの下町にはそんなものは残りにくい。

下町というのは、一般庶民が暮らす街なのです。つまり、流行に左右され、変わってゆく街です。日本的風情を意図的に残して人を呼び込もうとした時点でもうそれは観光地です。

下町で評価すべきは、外面、インフラではなくて「人情」「情緒」そのもの(のみ)でしょう。それは昔の庶民の「叡智」であり、お上へのカウンターとなりうる「武器」だったはずです。下町という「舞台」がそういった「人情」「情緒」といったものを脈々と受け継いでいっているのであれば、そこは評価できるのです。

「下町」っぽく装飾をつけてゆく時点で下町さしさが失われていくことに気付かないのでしょうか。気付かないのでしょうね。。

小林信彦氏が山の手/下町にこだわっているのもわかる気がするのです。自分は田舎育ちの門外漢ですが。。

港区の中の「山の手の中の下町」(「の」ばっかり)について、語り部となれるのは、門外漢で外部からの目線で客観視でき、かつ港区を愛でる私が適任ではないか、と思いますけどね。