元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

楽しい夢を久々にみた

本来の日記部分

自分はたぶん中学生で、小学生、中学生混成チームでサッカーをやっている。拓ちゃん(ムカシの同級生の実名)は相変わらずうまい。自分はサッカーは、どちらかといえば苦手。
でも、突然自分が覚醒して、サッカーが上手になったことを感じる。小学生相手に、やりたい放題。ドリブルで思ったように抜ける。トラップすると自分のおきたいところにぴたっと止まる。なんだか、プレイに「疾走感」がある。へたっぴいな自分は今まで感じたことのないような感覚。自分が中心選手となったような感覚。いや、実際、その場では自分は間違いなく中心選手で、ゲームメーカーだった。
なんだかすごく楽しかった。(こういう楽しい夢をみたのは久しぶり)

人生観、のような、思想の話

  • 日本語変換

ココロの中の「わさわさっ」という思いが、日本語(とやら)に変換されてぽっと出てくるその瞬間、それを逃してはならない、と最近強く思います。
いったんぽっと顔を出したら、あとはうまく引き出してやればあとはナダレのようにあふれてきます。
宗教やら思想について深く考えようとしていた半年前あたりがそうでした。(うまく引き出せていました)日記は長編が連日続き、それを書き出している自分自身が疲れてしまいましたが。。(仕事がヒマで、ストレスがなかったからかもしれません)
で、この「わさわさっ」を日本語というプロトコルで出力させることを容易にするためにはどうしたらよいのか?
ということを、考えるようになりました。そこが、実はイマイチよくわかっていなくて、そのキーになるのは「夢」に違いない、とは思うのですが、最近また夢を見ない(朝、思い出せない)時期に入ってしまっています。
(今日は別です)
言語化される直前の「イメージ」を夢はうまく視覚化してくれていると思うのですが。イメージを言語であらわすと「野暮」になります。でもそのイメージを「絵」というプロトコルに変換できるわけでもなし。

再録

これは、10年ぐらい前、まとめようとして失敗したトピックなのです。
「ケチ」と「太っ腹」の狭間について文章にまとめようとしたのですが何だかんだでうまくできませんでした。

当時、ワープロにまとめていたのですが、データは紛失してしまいました。けっこういいところまで進めていたのですが。。

そのとき考えていたのは。。

自分が「値切る」という行為ができない理由はなぜかといえばそれは、単に面倒だというのもありますが「そこまで落ちぶれちゃいないよ」という矜持からきているはずだ、と。

そもそも値切るというのはセコイ行為ではないのか? と思っていたのですが、なぜフリーマーケットの場で一種のコミュニケーションとして値切るのはセコいといわれないのか?

そして、フリーマーケットで値切らないで買うと馬鹿にされる風潮があります。それは人の勝手なので「ほっといてくれ」と思っていました。

自分は、値切らずとも適性な値段だと判断したから買うのであって、それをどうこういわれる筋合いはない、と。