元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「課」とルーティンのハナシふたたび

こうありたいまたは反面教師

  • 「課」とルーティンのハナシふたたび

自分の持論として、自身の生活が日課、週課、月課などのルーティン・ワークで埋められていけばいくほど幸せである、と考えています。
ただし、その「課」は押し付けられたりやらされたりするのではなく自身が設定するものです。

生きていくために必要な「仕事」「労働」については、気持ちのもちようで、これを「何とかして」「やらされてる」と感じないよう自助努力することが肝要です。

自分の人生が「課」て埋まってゆくことによるメリットは何か? それは、「迷い」が減ること。それに尽きます。
迷いは、なくなることはありませんが、減るに越したことはありません。

多くのヒトたちが求める「非日常」、良い意味での「ハプニング」はできるだけ排除する方向で。。
それらを、否定はしません。でも、それらばかり求めていたら自身の「ベース」みたいなものがなくなってしまうのではないか、と。


ところで、自身の生活を「課」で埋めてしまおう、というのはもしかしたら「機械になろう!」ということなのかな、と。さっきふと思いました。(問題提起として極端にいっています)

僕らは、本能のままに生きている動物たちをうらやましいと思うことがあります。「気苦労なさそう。。」と。

そして、人間とともに生きている犬などに対してはそういうことは考えない。「本能のままに生きている」とは考えない。

私が向かおうとしている方向性はまさに「気苦労なさそう。。」な世界なのではないのかな、と、考えます。


「非日常」に埋没しても結局は「気苦労」を抱え込んで、「日常」のワールドに帰還してしまうヒトが多いような気がしてなりません。自由を求め、「そっち」にいっちゃってはじめて「自由って大変なことなんだ」と気付く、といったような。。

日常がしっかりしていて、自身の「ベース」のようなものが強固であれば、そもそも自身のフィールドはそこ(日常)なのですから、たまに非日常のワールドにいざなわれても、自身を見失うことはない。そこで意志をしっかり持っていれば「気苦労」を抱え込むこともない。
「戻るところがある」という安心感といいますか。。

ところが、そもそも非日常の空間というのは、ヒトを迷わせるために存在する空間なのですよね。「そんな、同じことが永遠に続く人生でタノシい? もっと快楽主義でいこうよ!」みたいな誘惑。

そして、ヒトはそういうところに行きたいのです。自ら惑いたいのですよね。

どんなに日常というフィールドで自身の「ベース」を強固にもっていても、「惑いたい」という欲求を捨てきれることはありません。それは、わかっています。
だから、その欲求は最小化する。

なぜ、その欲求を前面に押し出して、自分の人生を自ら惑わして、不安定にしてゆくのが是とされるのか、が、僕には理解不能なのです。
という話を他人としても、「だって楽しいほうがいいじゃん」みたいな、不毛な議論で終わってしまう。
僕は、日常の多くを「課」で埋められていても少なくともアナタよりは楽しい人生を送っています。


さきほどの、仕事を「やらされている」と思わない気の持ちようと共通するハナシですが、日常の中に非日常を取り込んでしまう、という意識を持てるか、非日常の中に自身の日常もあわせて飲み込まれてしまうか、という、これも気の持ちようなのです。

結局、人生において非日常が繰り込まれてくるのは間違いないのですから。それをどう受け止めるか(あるいは、かわすか)


常々「あー、どこかいきたい」という逃避願望を持っていて、実際休暇のときに海外旅行とかにいったはよいが、(その「海外」も日本人だらけで逆に安心)そのまま「帰りたくないなー」と思い、実際帰ってきて自身のフィールドである日常の仕事に支障をきたす、というサイクルに似ていますね。。

支障をきたす、というのはメンタル面では「このままでいいのだろうか?」という思いをますます強くする、ということもあるのでしょう。「ゆらぐ」のですね。


ただ、僕は「アソビが中心の人生」を完全否定しているわけではないのです。「そのアソビは『日常』でしょ?」といいたいだけであって。

前にも書きましたが、とにかくたくさん海外旅行にいきたい、というのであれば、それを年一のルーティンにすればいいのです。(別に、カネに余裕があるのであれば半年でもかまいません)そうすればそれを楽しみに生きてゆけます。

そもそもこの「ルーティン化」に難色を示すヒトが、たくさんいるのですね。
人生をもっと「思いつき」で過ごしたい、という。。

なぜ思いつきの人生を志向するのか、についても、まったく僕の理解不能なところで。。 そこで議論が終わってしまいます。

そのわりには、企業組織にちゃんと従って、ちゃんと朝起きて、満員電車に揺られて会社にいったりするんですよね。。そういうヒトたちというのは。

再録

昼間の、「ホントはこんなはずじゃない」という自分がいて、それに対比するかたちでの、別な顔である「夜の自分」がいる、という考えかたは、捨てましょう、と。

まず、昼間の自分は、「ホントはこんなはずじゃない」というのはやめて、昼間の自分は、未完ではあるにせよ、「なかなか捨てたもんじゃない」まで引き上げなければなりません。

昼間の自分を否定してしまうと、私が強烈な違和感を持っているいわゆる「自分探し」とリンクしてしまいます。

ということは、昼間の自分に満足できている、という前提さえあれば、「夜の自分」に憧れてもよいのかもしれません。なぜならばそれは「逃げ」ではないからです。

夜、夜と書いてしまいましたが、自分が現在求めている二面性とは、それなりに満足している「昼の顔」プラス「朝」でしょう、ということです。

「朝」というのは一種の比喩ですが、現在の自分の方向性は、朝(そして早寝)に向いています。「朝」というのは「健康」の比喩かもしれません。


先日、「マジメにフマジメなことをやる二面性」と書いてみましたが、この書き出しに対する次のひらめきはないですね。。 これは持ち越しでしょうか。持ち越しというよりは、新たなトピックかもしれません。

それと、「小物であることの自覚と諦め、および反論(偽「大物」への)」->事務方以外がすべて大物予備軍であるはずはない。

という件について、もうすこし突っ込めるような気がするのですが。。

事務方というのは、確かに「小物」であるかもしれず、一生表舞台に立つことはない、のかもしれません、が、事務方が嫌だ、と事務方から脱出(本当は「脱落」ですが)した人が、そのまますべて大物(「表舞台」に立てる)になれるはずもなく。。

今書いたとおりで、自分の器を見極めて事務方から「脱出」した人は大化けするかもしれませんが、器が足りずに「脱落」した人は大化けするはずもありません。そしてほとんどの人は「脱落」したのに自分は「脱出」したと思い込んでいる。。