元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

フリーターふたたび 宗教にすがる 夢を「見つけた」とは

ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • フリーターふたたび

フリーとフリーターの違いというのを、なんだかんだでまともに考えたことがないというか。。
でも、常に頭の片隅にはあるというか。。
自分は「フリー」であるという誇りを持っており(でも持ち始めたのは最近ですが)、「フリーター」ではない、という確固たる自信があるからでしょう。

単調労働が「フリーター」と呼ばれるのであればそれはそれで差別的であり、問題ではありますが、それだけではないような気が。。


と、書き始めたのはいいのですが、まず、
フリー、フリーター共通項
・日本の会社組織の「社員」に属していないが、「労働」をしている
・専業主婦ではない

フリーとフリーターを分けるのは、まず年収でしょうね。
その境目は世間が決めればいいことですが、でもまあ、350万/年 ぐらいあれば単調労働であってもフリーターとはいえないのではないでしょうか。


次に,自分が戸籍筆頭者であり扶養家族を抱えていれば、間違いなくフリーターではないでしょう。年収に関係なく。
でも、独身だからとか、実家にいるからといって全員がフリーターではない。


実際に偏見としてあるのは、いわゆる「クリエイティブな」仕事であるか否かで分類する風潮がありますね。これが、よくないと思っているのです。

たとえば「フリーのカメラマン」「ライター」「編集者」の類で月収12万であってもそれはフリーターではないのか? と。

「好きなことをしている」か否かという基準がありますね。。
好きなバイトをしていて、月収13万だけど、ココロから自分の好きなことをやっている、という状態は、世の中的には典型的なフリーターなのでしょうが、自分は、そういう状態が「フリー」だと思っています。勤務形態が「バイト」であっても、関係なく。

「クリエイティブな」仕事をしている場合、それがイコール、「自分が好きなこと」である確率は高そうです。ですから、クリエイティブな仕事をしていて会社に属していない人間はニアリイコールで「フリー」なのですが、完全にイコールではない。

たまたま、やっている労働が「クリエイティブ」と世間にはとられるだけで、好きでもないし、ホントは他にやりたいことがあるんだ、という状況のヒトは、たくさんいるでしょう。
そういうヒトの多くは、仕事の「好き」「キライ」よりもまず「定職についていない」状況そのものが不満であることが多いわけです。「ホントにやりたいこと」が会社員である、と。

たぶん、そういうヒトがホントにやりたいことは「職業」ではなくて、「幸せな家庭」方面に向いているのだと思います。そのために、「定職」が必要である、と。
そういったキモチを持つことは、とてもいいことだと思うのです。


ところで、演劇とか、音楽とか、そういうやりたいことがあるがために、夜飲み屋でバイトしている、というのが「フリーター」なのですね。それは、やりたいことで「食えてない」状態。

「フリーター」には、やりたいことがある人間、目的をもってカネを稼いでいる人間もいれば無気力に、ただ生きてゆくためにバイトしている人間もいる、ということです。
後者が、マスコミなどで槍玉に上がってきます。


もしかしたらもう精神論のハナシで、自身が「フリーターじゃない!」と自分のことを判断すればもう「フリー」なのかもしれませんし、逆に「オレ(アタシ)ってフリーターだし。。」と、自虐的に自己紹介までしてしまうようであれば、年収、職種関係なく立派なフリーターなのでしょう。


「自他共に認める」(と思い込んでいますが。。)「フリー」である自分は、とにかく、会社組織に属していないからといってひとくくりにして差別的に見るのはやめなさいよ、ヒトとしての器がわかってしまいますよ、とはいっておきたい。

もしかしたら会社にしがみついているアナタよりも自立心旺盛でもしかしたらその時点までの生涯収入もフリーの私のほうが多いかもしれませんよ、と。

もちろん、その後の人生はわかりません。アナタも私も、同じぐらいの確率で路頭に迷うかもしれません。
でも、会社にしがみつくのが常態のヒトよりは私のほうがシブトいはずである、と信じて疑っていません。


私はムカシは、会社員や公務員を下から見上げるような格好で、半ばあこがれている立場だったので、それ以来肩書きでヒトを差別的にみたことはありません。
もちろん今もありません。でも、扶養家族ができてからは、下から見上げるのではなく対等にみれるようになりましたかね、やっと。

死、あるいは宗教に近い話

  • 宗教に「すがる」

食うに食えない人間が宗教にすがるのはわかるのですが、現代人(特に、高度成長以降)が宗教にすがるのは「甘え」だと思いますし、そもそも不自然だと考えているのです。

現代人は、滅多なことでは「飢えない」。たまにセンセーショナルな報道がされたりしますが、それは、報道されている時点で例外です。

衣食住が安定したら、「次のステージ」に進まなきゃならないだろうと思うんですね。と、いうことは、その対象となるのはほぼ日本人全員ですよね。
「次のステージ」とは、今のところの私の結論としては、宗教に「すがる」のではなく、「よりよく生きる」ために宗教を「利用する」イメージです。
そのあたりが、いわゆる「スピリチュアルな」方が想定している「次の(高い)ステージ」とは全く違うような気がしています。


なぜそこで「現代社会に疲れた」などといって、衣食住の欠損以外の新たな精神的「不満足感」をどんどん創出するのか、なぜ未だに日本人は宗教にすがらなければならないのか。(すがる対象は「スピリチュアル」の類も含みますし、広義に解釈すれば「心療内科」「精神科」の類も含まれてきます)

これがいわゆる、日本人が「病んでいる」状態。あまり好きなコトバではないですが。。


なぜこの「病んでいる」状態に疑問を呈したいか、というと、現代社会は個々の「疲れ」を癒してくれる機能すら個別に有しているからです。その癒し機能を、個々が主体的に探せば、必ず見つかるはずなのです。
でも、その「探そうとしない」事実すら「病んでいる」に内包されるという。。

資本主義社会なのですから、カネになると踏めば、そういう「癒し」システムはますます進化してゆくはずなのです。そして、実際、オソロしく多様化しながら進化し続けています。
個々のニーズにあったシステムは、必ずある。主体的に探しにいけば、見つかるのです。


ホントウは、(ホンネをいえば)そもそも現代社会に疲れなければいいのです。そのための手法を自身で編み出すべきなのですが。。
「社会」というのはある種の「怪物」ですからね。個人の力ではどうしようもならないことがあります。それは、知っています。

こうありたいまたは反面教師

  • 夢を見つけた、とは

先日、全く偶然に、WEB上かどこかで「やっと夢を見つけることができました これから夢に向かってがんばります!」という全く知らないヒトの文章を読んだのですが。。
最初はスルーしたのですが、しばらくして「???」となり。。

夢を「見つけることができました」とは? 夢を「実現することができました」ではないのか?

「夢を見つける」ことにより達成感を感じているというのは(どういうこと)?
夢がないということをコンプレックスに感じていたということ?
夢というのは、突然「見つかる」もの?

おそらく、若い時期、いや、数年前の自分であれば「???」ではなかったと思うのです。


そもそも夢というのはムリに見つけるものではないでしょうし、ないのがふつうでしょう。
そして、歳がいってから見つける、というのがそもそも不自然なような気がするんですよね。。

あたためていた夢を実現に向かってあらためて明示した、というのであればわかるのですが。。(実は、「夢が見つかった」とはこのことなのかもしれませんが)


夢の萌芽というのはすでにコドモの頃にあるはずなのですよ、ゼッタイに。それが突然「見つかる」というのは、何らかの理由で意識下に留保しておいた、ということなのでしょうか。

たとえば、貧乏暮らしから一転、成功を収め、金銭的時間的余裕ができたヒトが「さあ、コドモの頃からの夢をかなえるぞ!」となるのは、すごくよくわかるのです。

逆なのですね、たぶん。
コドモの頃からあまりに金銭的時間的余裕があるがために、やりたいことがコドモの頃からすでにぼやけてしまっているという。。

でも、よく考えてみればそれは「オソロしく」幸福な状況のような気がしないでもありません。

ナンチャッテ禅的にいえば、オソロしく幸福でもあり、オソロしく不幸でもある。
幸福であり不幸である状態。まったく矛盾していない状態。


夢が見つかるというのはそんなにうれしいものなのでしょうか?
目標が定まって、もうそれに向かって進めばそれでよい、みたいな状況に突入して、精神的にラクになる、ということでしょうかね。


この話題、もう少しいけるかも。。