元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

交通事故 熱狂

ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • 事故

交通事故を筆頭に、事故にはホントウに気をつけなければなりません。事故とは、人間の予知の限界を超えたものですから、人生を狂わせます。死亡してしまうのが、「人生が狂う」の最たるものですが、死なないにしても、半身不随になるとか大ケガするとか、その後の人生が大きく、悪いほうに、変わってゆきます。
もちろん死期とか、死に様までも変わるでしょうね。

世の中のヒトたちはこの「重み」をわかっていないような気が。。
ダイエットとか、身体を鍛えるとかする前に、自分が事故にあわないようガードすることのほうが大事だと思いますね。

事故にあわないためには外に出なければいいわけですが、そういうわけにもいかないですし、そんな人生イヤだ、と考えるヒトがほぼ100%でしょう。
とにかく、この車社会では人間なんて事故に遭遇したら一発で死んでしまいますし、あるいは半身不随、植物人間、手足を失う、などなど、常にありうることであるという覚悟をしておかなければならない。

これも「死」のハナシと同じで、自分にはこないと思っていますからね。。
死は確実にきますが、事故は確かに、その前にくるかもしれないし、こないかもしれない。だから、甘くみている。


人間は、この超近代社会においては、クルマのようなたかがキカイのカタマリ(人間自身が生み出したもの)にビクビクしながら暮らさなければならないのです。それは自業自得ではあるのですが、個人的には納得はいっていません。

私は、たかがクルマに自分の人生を狂わされるのは、「死んでも」イヤです。


「事故」の例が交通事故をイメージしたものになってしまいましたが。。
たとえば犬にかまれるとか、狂人に刺されるとか、事故には人間が絡むものもあります。

いや、違いますね、交通事故は、キカイを操作している人間が引き起こすのですからやはり人間です。
ということは、事故を引き起こすのは、直接的にも間接的にも「人間」。。

人間の意志そのものが「凶器」。。
これは、自然災害とはまったく異質のものです。


キケンなキカイを扱う人間の「魔」には注意が必要です。その「魔」を予防するには、どうしたらよいのでしょうか?

それは正直、わかりませんが、気をつけるべきなのは、その「魔」が発生したときに、その人間に手に凶器を持たせてはならない、ということです。

特にクルマは、ゼッタイに安全な乗り物ではありません。イメージCMにごまかされてはなりません。日本人の多くは、マスコミが自動車会社のCMに対して思考停止であることを知っています。マスコミは、スポンサーである自動車会社にケチをつけて怒らすことは、ゼッタイにできないのです。
つまり、あの、クルマのCMにはマスコミのチェックは入っていない。やりたい放題に良いイメージを大衆に植え付けようとしています。

クルマは、日本人を年間数千人コロしているのです。過去には、年間1万人を超えたこともあるのですから。


コロすといえば。。 クルマを運転するのは、アカの他人。つまり、私が轢きコロされたとして、誰に殺されるかといえば、アカの他人。つまり、「通り魔」と同じですね。世の中のヒトたちにはそういう認識を持ってほしいのです。猛スピードで走っているクルマを「通り魔」とみること。
そうすれば個々の処世術も変わってきますし、「まずできるところから、エコ」などという甘っちょろい考えの前に、クルマを減らすことがもっとも大事である、ということがわかってくるでしょう。

飲酒運転が厳罰になり、罰金が飛躍的に上昇して、やっと、クルマとは通り魔である、という意識の萌芽がみられるようになってきました。ですが、まだまだです。



死、あるいは宗教に近い話

  • 信仰

信仰とは信じることですから、その信仰対象に対して「ちがうんじゃないの?」と疑いを持つ個人なり勢力とは、対峙しなければなりません。
特に、長い伝統を守るヒトたちはキツいのではないかと思いますね。なぜならば、その伝統を守る本人は、もしかしたら納得してその伝統を受け継いでいないかもしれないからです。

その「信仰」というのは、この資本主義社会では宗教に限った話ではありません。まァなんでもよいわけです。ロック・バンドとか作家とか、とにかく、何らかのメッセージを発するヒト、あるいは集団であればいいのですね。
その対象に対して深く共感し、動向を半ば盲目的に信ずる一派が生まれる。(その対象に魅力があれば、のハナシですが)

そして(なぜか)必ず、その信仰に対して「ちがうんじゃないの?」とケチをつけるヒト、あるいは集団は登場します。その際、一人で対峙するのはヨワいので、防御は必ず集団になります。
そして、集団はイデオロギー化し、(なぜか)熱狂的=>暴力的に変容してゆきます。


それがまかり間違って権力と結託したりすると。。目もあてられませんが、集団というのはしきりと権力におもねって権力を利用しようとするものです。なぜなら、権力を利用すれば対抗勢力に勝てるからです。

でもまァ最近は、そもそも集団が暴力性を帯びる前段階である「熱狂」にすらたどりつかないことも多いようですね。それは、公権力とマスコミの洗脳の成果でもあるでしょうし、日本人が戦後、身をもって学んできた、シニカルな、現実とのコミット方法でもあります。


と、書いていて大きな間違いに気づきましたが、やはり「信仰」というコトバは、伝統的な、長く続いてきて、かつ洗練されてきた対象に対してでありたいですね。
たとえば「お地蔵さん」とか。。 道端のお地蔵さんに対して自然に拝む、というのは高度に洗練された信仰だと思いますが、どうでしょうか。(専門家の意見を聞きたいですね)

一時的、刹那的な、ロック・バンドであるとか作家とか、あるいは一代限りの新興シューキョウでもそうですが、伝統がなければ「信仰」するに値しないのではないか、と。

では、「信仰」の代わりになるコトバは何でしょうか? それこそ「熱狂」でしょうかね。あるいは「崇拝」?


  • 論文[想い出]

大学というのは、まったく私にとって「勉学」の場ではなかったけれども、とにかく長い文章を書けるようになったこと、そして、ワープロを使えるようになったことは、大きかったです。

長い文章を書けるというのは論理的思考をし、さらにそれを表現できる、ということです。
ワープロ(ブラインドタッチ)は、さらに、それを高速でできる。書くよりも何倍も早く表現できます。しかも、字がキタナくならないという。。 私にとってはコペルニクス的転換でした。

ところで、その反動が今、きているわけですが。。(文章で論理的につきつめてゆくことに限界を感じている)
学生のころに培った文章表現手法は今、あえて破壊を試みています。もちろん、ベースにはなっていますし、私の「クセ」を変える必要はないのですが。

抜粋・紹介

親鸞の核心をさぐる―徹底討議

親鸞の核心をさぐる―徹底討議

広瀬(杲):(略)あの当時の都の状況の中で、比叡山を中心とする仏教から完全に排除されている人々、(略)苦しみをおっかぶせられている人たち、その人たちが、われわれにとって仏教とは何なのか―、そういう表現ではないにしても、そういう告発の声を親鸞は聞き取ったのだと思うのです。(略)告発される仏教者の責任として、大乗の仏教とはいったい何なのかと問いつめていったときに、天台の教理学が見事でありすぎるがために、(略)庶民の苦悩には無縁であると実感した。むしろ庶民を完全に排除した仏教だと知った。(略)
広瀬:これはいつも、最近思うことですけれども、とくにいまのような関係で仕事をしているせいもありますが、何か仏教を研究する私たちの中に、どこかで、民衆というものは低位なものだという意識が先行するんですね。ところが民衆の叡知ほど鋭いものはないし、そういう意味では本当にその叡知に触れますと、権力がどれほどはかないものであるかを見抜くほどの叡知をもっているのが民衆というものだということを、つくづく知らされるのですけれどもね。(略)

(抜粋・紹介おわり)
親鸞はずっと法然の教えを引き継ぎ、それを発展させて教えを広めただけであって、本人は教団をつくる意志はまったくなかった、というのは最近知りました。
その点も、現代においても親鸞が注目される要因ではあるのでしょう。

それにしてもこの対談が、1990年ですか。。
この広瀬さんという方は、「民衆」をかいかぶっていますよね。。 「民衆の叡知」は今、あるのでしょうか?
マスコミに完全にホネ抜きにされてしまって。。

それでも自分はまだ「民衆の叡知」は信じたいというか。。「庶民の総体」がホネ抜きにされても、自分だけは、思想的には気骨がある庶民でいたい、といいますか。