元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

旅行は相当問題だと思う 2(核心)

本来の日記部分

鮫洲へ、免許更新へ。流れ作業で、詰まらないにもかかわらずしっかり時間はかかりました。
ふだんは、神田の免許センターで講習受けるだけで済むわけですが、今回は失くしてしまったので。。再交付&更新なので、運転免許試験場にいかなければならない、とのこと。


自分が、何に違和感や怒りを感じるのか、何に怒っているのか、明確にしておいたほうがいいような気がするんですよね、オブラートに包んだり、ガマンするんじゃなくて。
そうでないと、なかなか「書き出し」が終わらない。いつまでたってもせっせせっせと、内面の「どろっとしたもの」を掻き出すだけ。それが目的ではなかったはずなのです。ホントウの目的は、それらをすべて掻き出した後、「根源的な闇」が垣間見られるのか、見られるのだとしたらそこには何があるのか、を見ることなのです。
見えないから掻き出しているわけで、掻き出すことが目的ではない。でも、この「どろっとしたもの」は膿のように、どんどんたまってゆくのです。。
そしてなぜたまってゆくかというと、その原因はゼッタイに外的要因です。(言い訳。。)

  • 仕事

引き続き仕事の打ち合わせが不調。現場には出ず。明日も仕事なし。某社より契約社員のクチの話があり、揺れているが、そうせざるを得ないのではないか、と思う。

フリーではないが社員でもない、もっともあいまいな存在。。ハケンでもない。
なんだか自分にぴったりのような気も。。

ムカシは、そういう束縛によって自分が変わってしまう(たとえば「寄らば大樹の陰」とか「権力の犬」とか。。)のを極端に怖れていましたが、今は、表層的にどんな肩書きがつこうと「自分は自分」でいられるような気は、しています。
とにかく、もうそんな歳ではないのです。いきがる年齢では。

あー、でもすべて言い訳ですねえ。そういう最後っ屁をかまして変節していったヒトを自分は何人も見ました。



ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • 旅行は相当問題だと思う 2

昨日はホントに時間がなく。。
何のハナシだったかといえば、現代人の趣味の中で「観光旅行」というのは相当マズいのではないか、というハナシでした。

たとえば、新幹線でさくっと、大阪まで「食い倒れの旅」に行くとか、そういうヒトが今、たくさんいます。日帰りで。のぞみであれば往復で5時間半。
これも立派な観光旅行であり。。そして「旅」ではない。物理的に距離があること、距離相応のカネがかかることをのぞけば、都内でちょっと電車を乗り継いで食べ歩きに出るのと何ら変わりはありません。


ほとんどのヒトたちが根本的に間違っているのは、「見聞を広める」というのは「教養が身につく」とイコールではない、ということです。
それは、暗記して知識だけがいたずらに増えてゆくのと、同じです。なぜ暗記はキライなのに必死に「見聞」だけは貪欲に吸収しようとするのか。。

そして、上に記した例のように、交通手段の異常なる発達によって、見聞はカンタンに広めることができるようになった。つまり、希少性は失われています。「誰でもできる」のです。
私のイメージでは「マンガを読む」に似ているような気がするのです。


今の時代の「見聞を広める」というのは、薄っぺらい日常会話のネタをひとつ増やすことであり、それが物理的時間的にどのぐらいのコストがかかったかによって、そのネタがどれぐらい持つかが決まってくる。たとえば、大阪に日帰りで食い倒れに行ったのであれば、コストがかかっているからネタとして1ヶ月はもつかもしれない。いや、カネがかかっているのだからネタとして持たせなければなりません。だから必死の自慢話になってゆく。

放っておくと、どれだけカネをかけても、どれだけインパクトがあっても、すぐ風化されてゆきます。
どれほどインパクトがあるニュースソースも、昨今、すぐに忘れ去られてゆくのですから、各自の薄っぺらい「見聞」など、他人は一瞬で忘れてゆきます。

ニュース番組が、異常なぐらい貪欲に話題性のあるニュースを求める(イコール、他人の不幸を喜ぶということです だからニュース番組はキライなのです)ように、我々も無限に「ネタ」を日常から拾い集めてこなければなりません。かくして無限ループに陥って、常に不満足感を持ちながら生活するようになります。

その不満足感の内容で、現代の日本人に最も多いのが「遠くへ行きたい」なのです。
これさえ断ち切れば多くの日本人のストレスは少しずつ解消されてゆくと思いますね。

逆なのですよ。遠くへ行くことでストレスが解消できない(から、今の生活が不満足と感じる)、ではないのです。「遠くへ行きたい」と思うこと(マスコミにより「思わされていること」)自体がアナタのストレスの元凶のひとつなのです。(【重要】マーク)

この事実に誰も気付こうとしない。。いや、気付かせまいとする勢力が、今、強すぎるんですね。


観光旅行により「キレイな景色を見にいく」という効用があります。確かにそれは、認めます。でもそれは、ご当地特産の料理がそこでしか食べれない、というのと同じですよね。そこにいかなければその景色は見れない、というのはそもそも自明のことです。つまり、「それがどうした」というレベルなのですよ。


結局は「自分」次第というか。。 極端にいえば、人間が行動するだけで、その困難度に関係なく、「経験」は蓄積されてゆきます。近所のコンビニに行くのも、北斗星に乗って摩周湖を見に行くのも、「経験」には変わりない。
それをどのように内面で咀嚼して、真の「経験値」としてゆくか、です。
「真の『経験値』ってなに?」という疑問はでてきますが。。 それはまた次回の課題ということで。。


それと、「思い出」のハナシですけども。。
「思い出」って、そもそもそんなに必要ですか?
私はホントは「思い出」というのはとても大事なモノだとは思うのですが、昨今、ここまで「思い出作りの無限ループ」にハマっているヒトたちが増殖してしまうと、「思い出」に対してアマノジャクになってしまいますね。

そういうヒトに対して強烈な違和感を感じています。(「キライ」とまではいきませんが)なぜなら、あれこそがマスコミの洗脳の成果だからですよ。


でも、たぶん、真の「思い出」とは、先ほど書いたように、いろいろな経験を内面で咀嚼して消化したものだけを「思い出」と呼んでいいのだと思うのですが。。
ただの経験の蓄積は「思い出」と呼べるものではない、本来は。

だから、自分のキャパオーバにならないぐらい、少しでいいんです、思い出なんてものは。




再録・継続

9:00出勤だと9:05に出勤し、9:30出勤だと9:35に出勤する、という別な意味で時間に正確なヒトっていますよね。。
そういうヒトは、コドモの頃から、オトナの顔色を見ながら生きてきたに違いない。コドモの頃「オトナ」に位置づけられていたものがオトナになって「会社」になっただけであって。

そしてそういうヒトは、「社会」という強大な勢力には、全く無力で、無条件に追従する他ない。
表面上は無条件追従して、ウラでは文句ばっかり。

そういう人間像が透けてみえます。そしてそれが「典型的な社会人像」になってきているのがこの国の恐ろしいところで。。 だから「世も末」なのです。