元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

”noblesse”  会社シリーズ(メール)

本来の日記部分

サクマニア(さくまあきらさん)の日記で、モンゴルにマスコミが押し寄せたけどネタを取れなかったから、悔しくて朝青龍のバッシングを始めた、という話がありましたが、ホント、さもありなん、です。
単なる駄々っ子ですよね。マスコミなんてそんなものです。そんなものだ、という先入観でマスコミに接しないといけません。



人生観、のような、思想の話

  • ライトな「物語」

今、ぱっと思いついたところでは、ライトな小説を読んだり、ちょっとBGMを流してみたり、そういう行為であっても、その作り手の「物語」を体験しにゆくわけですよね。息抜きにゲームをするのも、そうかもしれません。

でもその「物語」はニセモノでしかないですし、ニセモノであることを作り手も受けても知っている。
と、いうことは、需要はあるということです。「商業主義に乗っている」とでもいいましょうか。。


「ライトな物語」を否定はしないのですが、そちらの需要があるのであれば「ヘビーな」ほうも需要があってほしい。でも「ヘビー」は今の世の中、全く需要がないようです。

そもそもこの「ヘビーな」がクセモノであって、ヘビーだからといって真の「物語」なのかといえばまったくそのようなことはなく。。
「ヘビーなもの」イコール「つまらないもの」だから、需要がない、という図式もあながち間違っていないのですね。

でも、真の物語はほぼ、「ヘビーなもの」に属するのではないでしょうか。「ヘビー」でつまらないものの中、奥深くに埋もれているのではないでしょうか。

真の物語、の定義とは何か? それはたぶん「やりすごせないもの」だと思います。「ながら」ではいられないもの。そして、途中で投げ出せないもの。
表層意識で「つまらない」と感じても、投げ出せなかったら、ホントはつまらなくないのかもしれません。

「こうありたい」または反面教師

  • 感受性が鋭い

感受性が鋭い、とは、そもそも長所でしょうか?

感受性が鋭いだけでは世の中の迷惑になるばかりで、何も生み出しませんよ。

自分の、世の中に対する存在意義を探し出して、確立したかったら、現実世界にコミットする術を持たなければいけないのです。自力で。

現実世界にコミットすることで感受性「とやら」が失われるのですか? そうではないでしょう。そこで失われるぐらいの感受性「とやら」はニセモノです。


感受性「とやら」を鋭くしておいて現代社会を生き抜くのは確かにタイヘンそうです。であれば、鋭くしておかなければよい。それだけです。それは、できます。「閉じて」おけばいいのですから。
「閉じない」のがアナタのプライドですか? そのプライドすらもニセモノではないですか。。


なんだか私の「怒り」を引き出す原因のすべてが、「コドモのココロを持つ」ということの本来の意味が曲解されているからのような気がしてきました。

コドモのココロを持つというのは、子供を卒業してオトナにならない(なれない)とは違うでしょう?(【重要】マーク)

「世代間」の話

  • "noblesse"

少し前の世代までは、コドモ、特に長男長女にはやや過剰気味な期待がかけられたものです。そして、大多数の、期待をかけられた少年少女たちは、何もなかったかのように期待に応えていきました。いや、そうではなく、結果はどうであれ、プレッシャーに押しつぶされることはなかった。
そのプレッシャーはアタリマエのことだったからです。

それが今はどうですか?

期待は親の押し付けだから、と「優しい子に育ってくれれば(それでいい)」とか。。

その「優しい子」という期待像こそプレッシャーだということをほとんどのヒトは気づいていないのでしょう。


「末は博士か大臣か」とか「玉の輿」といったような、具体的かつ古典的な「期待」のほうが、そこに至る道筋がシンプルでかつ、たくさんの先達の例があるがために、子供へのプレッシャーは逆に少ないのです。

それに、コドモには拒否権があります。どうしようもないときは「ムリ」と言います。手段がわかっているからこそできないことがわかる。

ですが「優しい子」というのは。。 親はホントに、コドモを優しい子に育てようと思っていますか? ホントは、世の中を狡猾に生き抜いていく智恵を持ってほしいのではないですか?


ハナシ変わりますが、以前存在した「上流階級」(?)の子女へのプレッシャーのかけ方が、参考になると思います。

そういう子女は、その一族の一員として、反抗心があろうと「一族の恥」にはなれない。そこには、物心ついたときから相当なプレッシャーがあるのでしょう。

そこから逸脱する(グレる)ケースは、確かにあるのでしょう。ですがそれはレアケースにすぎませんし、そういうグレ方はどうしても目立ってしまって大衆の気を引くだけです。

ほとんどの「良家の子女」は、守られた環境の中で、「一族」のプレッシャーをほどよい「プライド」に脳内変換し、ある意味では「割り切って」考えることができます。
自分の希望の中に、その「一族」の期待を取り込んでゆくことができる。それは、「飲み込む」という表現がぴったりきます。

プレッシャーの中でもモチベーションを保つことができるのは、その期待の先にあるものが、決して「平凡」ではないからで、その子女にとって「相手にとって不足はない」魅力的なものだからです。最初は、従っている感によって魅力的にうつらなくとも、歳を経るごとに、自分に敷かれてゆくレールというのは「けっこういいかも」と感じるようになってゆくのですね。


結局、「一族」のプレッシャーとは「凡人にはなるな」とイコールです。それと、子女たち本人の「凡人にはなるまい」という青年期特有のプライドが共鳴したときに、すばらしいハーモニーを奏で、それが強力な推進力になってゆくのです。

この「手法」というのは、今の日本、一億総中流の我々も、手法だけは適用できると考えているのですが。。
最近の我々庶民というのは、ヘタすると一昔前の「上流」よりもウマいものをたべ、便利な家電を享受しているはずです。つまり、「いい生活してるね〜」ということです。

ですが、俗っぽい便利な生活だけは貪欲に「上流」から「中流」へ引きずり込みつつも「高貴さ」("noblesse" ?)だけは全否定してどこかに捨ててしまう。

まァ、物質的に豊かだからといってその"noblesse"を漂わせることすらできない我々。。
甘ったれのオトナであるうちは全くダメでしょう。マスコミに全存在を左右されているうちは全くダメでしょう。ヒトが見ていないところでプチ悪事を働くようなオトナでは全くダメでしょう。

そしてそういうオトナなのですから、コドモも同じようになってゆきます。

"noblesse"は創造できないものでしょうか? これは、かつての庶民階級にはなかったもの。だから、「創造」です。

物質的に豊かになった我々は、次に"noblesse"にチャレンジする必要があるのではないでしょうか。
今は過渡期なのでしょうか。ほとんどのヒトはそこに向かおうとしていないように感じられますが。。

あるいは、総中流の中でも、"noblesse"を志向するヒトたちとしないヒトたちで明確に階層分けしたほうがよいのではないでしょうか? 住む場所から。。

庶民を否定しているのではありません。「21世紀型の庶民」になりましょう、といいますか。。
それは「かしこまる」ことではないのです。"noblesse"とはおそらく精神のありようです。
さっきも書きましたが庶民が"noblesse"を帯びたことはかつてなかったわけですから、どうなるかは誰にもわかりません。




会社シリーズ

  • メールについて

「イマどきの若い子って。。」と切り出すときは、ほとんどの場合、若くない世代、つまり、自分たちも同じように問題なのですが。。

ビジネスメールを「悪用」してますね。

たとえば、同僚との意味のないグチの交換。上司にいろいろ言われて、自分が悪くて言い返せないときとか、そのはけ口をメールに乗せて他人に「まき散らす」。

たとえば、上司に対して「○○さんについて相談があります」
コドモの告げ口の延長ですね。

「今後のことについて相談があります」
つまり「辞めたい」という相談です。

ただでさえ忙しい上司に対するこのような「攻撃」。。


こういう状況というのは、明らかなネットの私的利用の陰に隠れていますが、もっと問題視されていいように思えます。

いわゆる「上司」というのは、部内で流れているメール(つまり、インターナルな「思惑」情報)にびくびくしながら1日を過ごしている、といっても過言ではないのです。そのストレスたるや相当なものでしょう。

なぜなら、「上司」というのはさらにその上層部から「監督責任」を丸投げされているわけですから、部下の「不穏な動き」には常に目を光らせていなければならないのです。


ヘタに注意、叱責すれば逆恨みされ、激烈な文句のメールが部下の間で飛び交う。そのネガティブなエネルギーたるや相当なもので、集団の雰囲気をゆるやかに変えてゆきます。それが売上げや成果にもダイレクトにつながってゆくから、怖いのです。

この、メールシステムという文明の利器がもたらしたビジネス・シーンへのネガティブな影響というものをもっと分析しなければなりません。
直接的に生産性を低下させていなくとも、ネガティブなメールがその組織の雰囲気を少しずつ壊し、全体生産性を低下させている可能性は低くはない。

そもそも元凶はどこにあるかというと、「顔の見えないコミュニケーション」でしか自分の「実力」を発揮できないヒトたち、世代にあるのです。
昨今、世の中に怒涛のようにあふれ出している、リアル現代社会の「プチ」不適格者たち。。

こういうヒトたちは、実はヴァーチャルな世界でも二面性を持ちます。
たとえば、リアル社会ではウチでは良い子、でも外ではヘーキで猫を殺します、みたいな感じで。。
ネット内でも、どこかのサイトでは非常に従順、でも、たまに「誰も見ていないところ」で、凶暴になる。言い方を還れば、「誰も見ていないところ」でしか凶暴になれない。

一昔前の関西であれば「ヘタレ」と一蹴された人種ですが。。現代社会では、リアルでもヴァーチャルでもなぜか保護されていますね。