夕凪の街 ”Second Life” 死と宗教観3 言わない世の中2
本来の日記部分
- 作者: こうの史代
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2004/10/12
- メディア: コミック
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自分も、再読したくてうずうずしている状態なのですが、なぜか自分に抑制をきかせて読んでいません。来週、読む予定に入れています。
この本が映画化されるそうなのですが、自分はとてもじゃないけど観れませんね。ストーリーが始まってから終わりまで泣いてると思います。しかも、たぶんスクリーンに集中はできなくて、スクリーンを見ながら原作の絵の風景を思い浮かべて泣くのだと思います。
いつも日記では世の中に対する不満めいたことを書き出してしまっているのですが、この作品を斜に構えることなく「良い」と評価するヒトがたくさんいるのを知って、また、「ああ、まだまだ捨てたもんじゃないな」と思うことができます。
自分について
- 死と宗教観3
「死」というものを間近に見たことで、「生きる」ということに対して、他人と決定的な違いがあります。
端的にいえば、昨今、だいたいの30代〜40代ぐらいのヒトたちは、自分は80ぐらいまでは生きるかな、と漠然と思っています。
「長生きしないから」とうそぶくのは完全にポーズです。本心ではありません。
私は、リアルに60ぐらいまで、と確信しています。その根拠は、ここには書きませんが、何となくあります。
この20年の差は、とほうもなく大きな溝です。
ホントのことをいえば、自分は80ぐらいまで生きるのではないか、と考えているヒトたちは、日本の平均寿命がそれぐらいだから自分もそうなのだろう、と考えているだけで、「死」については全く実感していません。
エンドが決まっていないから、たとえば、現状に不満足感があったとしても、安易に先延ばしできるわけですね。
自分は、残り人生何十年、とリアルに実感すると、また、残り時間に対して、自分のやりたいことのボリュームを鑑みると、もう完全に後がないのです。
だから自然、生活の密度が濃くなりますし、残りの人生をどう豊かに生きようか、と考えながら生活することになります。が、それが、同世代からみると「極端」にうつるらしいんですね。実感できないから。
「まあまあ、セマいニッポンそんなに急いでどこにいく」みたいな思いを抱くようです。
そして、稀に、そんな自分に嫉妬羨望の感情を抱くヒトもいますし。。
ただただ、「一生懸命生きている」という人間に対して、一生懸命生きられないヒトが何かしら複雑な感情を抱くらしい。でも私は、できればそんなに急ぎたくはないわけです。だから、嫉妬羨望を抱くヒトに対しては、「じゃあ代わって!」といいたい。
80まで生きれるという前提があるのであれば、自分の人生設計は変わるのですから。アナタのようにぐーたらしている時間も、とれるかもしれない。
自分は、まだよくわからないところがあるけれど、「高み」のようなところに行きたいのです。アナタたちは追いてゆきます。あと4、50年生きれるだろうとタカをくくってのんびり生きているヒトたちには、結局死ぬまでたどりつけないところだと思うから。
その「高み」に行こうともがく行為を、ぐーたらと過ごしているヒトたちに「逃げ込んでる」と思われたりするのが。。 すごく、腹立たしい。逃げ込んでるのはどっちだよ、と。
果たして安全圏にいるのはどちらなのか。
抜粋・紹介
- 作者: 河合隼雄,中沢新一
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1998/01
- メディア: 単行本
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- 作者: 河合隼雄,中沢新一
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2003/08/06
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現実を悪夢であると規定するまでは共通、agreeだとしても、そこから精神的に「逃避」するか、その"nightmare"を楽しむか。。
昨今、リアルな「逃避」ではなくて、「ヴァーチャル・リアリティ」に逃げ込む、という手段が確立されていますね。
あれは、人間の20世紀末の大発明だと思いますが。。
インターネットも「ヴァーチャル・リアリティ」の大きなカテゴリのひとつですね。
テレビもほぼ、そうです。
ヴァーチャル・リアリティつまり仮想現実の進化の過程を追ったら、面白いと思うのですが。。
そして今、21世紀前半時点で究極のところまでたどりつこうとしているのが、「Second Life」ですね。
ヴァーチャル・リアリティは、現実が「悪夢」でなければ必要なかったはずです。現実が悪夢になればなるほど、もうひとつの逃避の手段として人類はそれを発明せざるを得なかった。(【重要】マーク)
でもムカシは、人々は闘ってきたわけです。今より絶対的に不便で、ガサツで、暴力的な時代に生きていた人々が、逃げ込む先はやはり「祈る」だったのでしょう。
瞑想、妄想が彼らの「ヴァーチャル・リアリティ」であり、彼らは脳内にそれを鮮明に作り出すことができた。
そして、それを具現化というか、実際に映像化することを可能にしたのが、20世紀の人類の大発明。
ですが。。そんな大発明もあり、世の中も加速度をつけて便利になってきたにも関わらず、経済活動の活発化により世の中が「悪夢化」してゆくわけですね。
経済活動により、人々は、ブラウン管よりももっと「リアルな仮想現実」(定義矛盾?)を追い求め、それをどんどん実現させてゆくことになります。
悪夢な世の中を構築しながら、それとセットで、その悪夢からの精巧な逃げ先も準備してゆく。
"Second Life"含むインターネットは、20世紀後半の人類の大発明で、21世紀のヴァーチャルリアリティの主流になってゆくものですが、これこそまさに、「仮想現実」どころか「第二現実」ですよね。
ヒトとヒトとが、肌を触れ合わなくともよい生活の舞台。それが"Second Life"であり、人類が「別荘地」として求めたもの。つまり人類は、この悪夢の中でまず、肌と肌が触れ合うような人間関係にわずらわしさを感じていた。
が、なぜか"Second Life"にも擬似的な人間関係の機能は含まれていますね。誹謗中傷もあるでしょうし、おそらく押し売りもくる。同じマンションの住民と口論することもあるでしょう。あれは、なぜなんでしょうね。
ゼッタイにパラダイスにはしない。楽しいことも楽しくないことも起こる。せっかくの「第二現実」なのに、そういう悪いところも現実に近づけようとする。でなければ「リアリティ」がないから。。って、「第二現実」にリアリティは必要?
もしかして、現実(=悪夢)こそが「第二現実」なのでは? 逃げ込む先の「ヴァーチャル・リアリティ」こそ真の現実なのでは? と画一的に考えるのはホント、意味がないわけで、重要なのは、人類は、それら「複数の現実」間を自由に行き来することを可能にしつつある、ということです。自由に行き来できるようになれば、どっちがホント、どっちがウソ、という定義はあまり意味はない。
そして、どっちがどっちか、境界線もあいまいになってくる。
たとえば、インターネット上の"Second Life"にはおそらく「エアコン」はないでしょう。(たぶん)"Second Life"にいるときに身体が暑くなってきたら、現実生活に戻って、手動でエアコンのスイッチを入れるでしょう。
でもそこでもしかしたら「ユビキタス・ネットワーク」と連動して、"Second Life"内で蛍光灯のスイッチを入れたら現実世界も明るくなるのかもしれないし、"Second Life"内で酒屋に注文したら届けてくれるのかもしれない。
"Second Life"での自宅の冷蔵庫のストックと、現実のそれとが連動しているのであれば、出先のインターネット・カフェで、"Second Life"の冷蔵庫の中身を見てからスーパーで食料品を買って帰れるかもしれない。
インターネットという「ウェッブ」の中に"Second Life"を構築したのは、この"nightmare"から精神的に開放されたいという潜在的欲求を持つ人類の英智の結晶でありかつ、「断末魔」なような気もしています。