元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「形を持つ」

本来の日記部分

今日は、下記の本を読んでいてひらめいたことがあり、久々に「知的興奮」らしきことを味わうことができました。アタマの中で混沌としている思考と思考が劇的に「つながる」ときに、自分は興奮を感じることができます。
やっぱり、本はその「つながり」を支援する触媒として必要ですね。。 こうやって書き出していてもループしてしまうばかりのこともあります。

。。どういうふうにつながったか、は明日。時間切れです。。

  • 仕事

無事最初の1週間終了。幸先よし。幸先よし、と感じることができる現場なんて、何年ぶりだろう。。


抜粋・紹介

日本人と「日本病」について (文春文庫)

日本人と「日本病」について (文春文庫)

「岸田 ぼくの発想というのは、大昔からある非常に古い発想です。昔からいろんな人が言ったことを、現代の言葉に言い換えているに過ぎないんで、オリジナリティは全然ありません。
山本 いやいや。オリジナリティとは元来そういうもので、孔子も「のべて、つくらず」と言っています。
岸田 梅巌によると、形が失われたわけですね、人間というのは。
山本 形どおりにできなくなったんです。
岸田 だから形をきめなきゃいけない、と。
山本 そうです。
岸田 ところが、ノミは血を吸って、馬は草を食うというのは、もう本能的にきまってるのですけれど、人間は本能が壊れてしまっていて、何でもできる。本能というのは形であって、その形が壊れてしまったわけですから。しかし、この世の中に生きていかなきゃいけないので、何らかの形を持たなきゃいけない。ノミが血を吸うという形は本能的なものであって、その形以外にはあり得ないわけで、そういう意味でも根拠があるのですが、人間の場合は、いかなる形をとろうと根拠がないんですね。
山本 でも、彼に言わすと、働いて食うというこの形だけは崩せないんですよ。労働、つまり勤労の哲学は勤勉の哲学となる。
岸田 しかし、それは彼が規定した形でしょう。ノミは血を吸わないと生きていけませんが、人間は、たとえば人に働かせて、搾取してのうのうと食うとか、人をだまして、その財産をかすめ取って食うという行動様式も可能なわけですから。人間にはこれでなければ生きられないというのがないわけです。逆にいえば、いかなる形でもとり得る。しかし、同じ社会の人間がそういう意味でどんな形でもバラバラにとってたんじゃ、社会体制が成り立たないから、そこで形を決める必要が出てきた。
山本 そうそう、そこで彼は「鳥類獣類形を践む。されど小人は然らず」といい、そして聖人がその形をきめたと言っている。だから聖人である、と。
岸田 しかし、そこで大きな弱点というのは、その形に確実な根拠がどこにもないという・・・・・・。
山本 いや、その形に確実な根拠がないがゆえに絶対性を置くんです。それは一つのフィクションであっても、それに絶対性を置かない限り、どうにもならない。(略)」
岸田 ヨーロッパと日本というのは幻想の内容が違うんで、幻想の違いが歴史の違いとなってあらわれるわけです。(略)この日本国が引きずってきた幻想を意識化して、それを幻想だと知ることが、神経症としての歴史から脱却する第一歩だと思うんですね。これまた今までの集団の自我を崩すことになりますから、大変な危機であることは間違いない。(略)
山本 確かに、消えてはまた別の形で日本人を支配する「空気」というやつよりもこの共同幻想は、はるかに根強いですからね。