元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

日課の徹底 ムカシの生活に戻るべきか 貨幣価値の半減

本来の日記部分

その、昨日書いた、ばったり遭遇した知人と、ランチをして、けっこうお話もできました。
何年も会っていないと、互いに、変化がありますね。。
「飲みに行こう」というのは、なかなか難しいものがあり。。


今の住処に越してきてから初めてかもしれませんが、夜中にバイクの騒音で目覚めました。
それに対する怒りはあまりなく。。(住宅街なので誰かが通報したのでしょう その騒音はすぐおさまりました)

その後、寝付かれなくなってしまったので、久しぶりに深夜テレビのザッピングをしました。
テレビはホントにツマラなかったですが、懐かしい感じがしました。

テレビはすぐにやめて、たまっていた録画番組をやっつけて就寝。良い時間の過ごし方ができました。

その代わり相当眠いのですが。。

  • 仕事

次の現場の打診。今の現場に対しては諦め。続けるのはムリでしょう。7月からの移動をターゲットに動き始めます。

安定しませんね。。 個人事業主が安定を求めてはいけないのかもしれませんが。。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • ある意味、お金の価値の半減

「飢え」というコトバが全く現実的でなくなり、誰でも親や自治体に寄生すればなんとな〜く生きてゆける「超豊かな」世の中になった昨今ですが、「稼ぐ」という行為がこれほどまでに軽視される状況になってしまうと。。(被害妄想的にそう考えているのは自分だけなのでしょうか?)

それはつまり、貨幣価値が減少しているということではないでしょうか。
稼いだカネに対して感謝されないわけですから、つまり、稼いできたカネにはそれほど価値はないということですよね。

ムカシ、まだこの国が豊かでなかった頃は、お米(と、お百姓さん)に対する感謝と同じレベルで、おカネ(と、おカネを稼いでくるおとうさん)に対する感謝があったような気がするのですが。。
これも、幻想なんだろうか。。

デフォルトで父親に対する感謝があるからこそ、家庭内で父親の意見が通りやすく、それゆえに父親も、自分が家長であるという自覚を持ち、「扶養家族を育てなければ」という気概を持ち、ばりばりと仕事を頑張って、という好循環が生まれ。。

父親がお金を稼いでくることが「大したことではない」この世の中では、デフォルトで父親に対する感謝はなく、父親の小遣いも少なく、家庭における父親の立場もなく、父親は、何のために苦労して仕事しているかわからなくなり、モチベーションが下がり、給料も減り、家に寄り付かなくなり、ますます家での立場もなくなり。。 という悪循環。
(似たような話をどこかで書いたかもしれません)

日本人の「実感としての貨幣価値」が下がり、相対的に、「主体的な家族サービスの価値」が上がった、ということですね。結論づけると。

うーんでも、それもわかるのだがそれでいいのだろうか。。

家族が、根源的な問題として、「なぜこの資本主義社会で、自分は生きてゆけるのだろうか?」と、考える時間は必要だと思うのですが。。

主体的な家族サービスの価値がその家の中で上がったからって、家長は家族サービスばっかりしているわけにはいかないでしょう。主体的な家族サービスは単なる付加サービスにすぎないわけで。


余談ですが、先日、誰かに聞いた話では、自宅から通っているフリーターの若い女性で、自分の給料日がいつか、自分が月々どれぐらいもらっているかすら知らないヒトがいるそうで。。 
財布におカネがなくなったらATMで1万、2万ぐらいずつ引き落とす。通帳は見ない。残高がおろせない金額になったら親に借りる。旅行代や、まとまったおカネも大部分は親に援助してもらう。

それで日々「なんとな〜く」暮らしていけてしまう。
その「なんとな〜く」がクセモノといいますか、自分がもっとも敵視すべきモノだと考えていますけどね、今は。

ヒトというのは、日々徹底して同じ日課を繰り返していたほうが、結局幸せになれるのではないか、と最近考え始めています。これは、確信に近いものです。(【重要】マーク)

たとえば、ヒトは絶対に寝なければなりませんが、そこで偽「個性」を発揮して「オレは寝ない」と高らかに宣言するヒトはいません。

寝ないヒトは究極の個性派だと思いますが。。自称「個性的なヒト」はここまで踏み込もうとはしませんね、当然。「できる範囲の」個性的にしかなりえません。
(ちょっと皮肉が入ってしまいました。。)

脱線しましたが、絶対に寝なければならないのであれば、徹底して同じ時間に寝て同じ時間に起きる。
そうすれば心身ともに健康になりますし、生活も規則正しいものに矯正されてゆきますし、何ら問題はありません。

ジャマになってくるのは、「不規則な生活をしたい」という欲求です。「不規則な生活」イコール「非日常」(今現在、私がキラっている概念です)であり、ヒトは、ある程度規則的な生活を続けると不規則な生活を渇望するものです。
そこを何とかして乗り切ればいいわけです。

規則正しい生活を続けることにより、その継続が少しずつ快感になってきますので、(経験済です)そうなればゴールはもうすぐです。
想像している「非日常」の楽しさのレベルよりも、実感(実践)している「規則正しい生活」のほうが楽しい、という確信を持てればいいのです。そうすればヒトは自然、快楽欲求のほうへ動きます。

とちらが楽しいか、どのような生活が楽しいか、というのは、マスコミや世間に決めてもらうものではなく自分の経験上から判断するものです。

仕事が忙しくてそんなことできるわけがないとか、休日ぐらいは夜更かしして、昼まで寝ていたいとか。。
そういうヒトは仕事を変えるべきですね。
できるかできないかは問題ではなく、そのぐらいの気概を持っていることが大事だ、ということです。「仕事が忙しくて〜」といっているヒトは仕事に完全に依存しており、常にどんな状況であってもそれを言い訳にしようと虎視眈々と狙っています。

仕事よりも「健康で文化的な最低限度の生活」のほうが大事なのですよ、当たり前のことですが。。

「健康で文化的な最低限度の生活」をするために仕事(お金を稼ぐ手段)が必要なんだよ、という反論が聞こえてきそうですが、それも自分は重々承知していますが、そのいたちごっこをどう整理するか、というのはまた別な課題ということで。。


食事も、ヒトは1日2回以上は食事をとらないと、問題なく生きてゆくことができないようです。

ですので、食事の時間もあわよくば常に一定にし、食事のメニューも、全く同じとはいいませんが、いくつかの料理のローテーションにしてしまうのが、良いのではないでしょうか。

毎日同じ食事だと飽きるでしょうか? そして、それは「不幸」でしょうか?

ムカシ、私は毎日毎日、年に355日ぐらいは、同じ内容の朝食でした。食パンにマーガリンとハム、紅茶とヨーグルト、などなど。

夕食も、母親の方針により、まず必ずごはんと味噌汁がありました。そして、ムカシの食卓ですから、テーブルの上に乗っている食事のうち何皿かは毎日同じメニューです。たとえばウチで漬けた漬物とか。自家製のふりかけとか。
たまに、アクセントとして、カレーの日があったり、味噌汁ではなくて洋風のスープの日があったりしましたが、年に340日ぐらいは「米」と「汁」を食べていました。

ところで、夏休みとか、休日の我が家の昼食は、徹底して軽食のローテーションでした。インスタントラーメン、焼きそば、うどん、そば、チャーハン、ピラフetc。夏は冷やし中華とか。
私は、出されたものを淡々と食べるタイプでしたので、特に不満はありませんでしたが。。 これも母親の方針だったのでしょう。

外食は、たまにしかなく、たまにしかないがゆえに、けっこう重要な家族の節目のイベントでした。特に、親戚が一同に会する1年あるいは数年に一度の会食は、ある程度高級なところに「お出かけ」することもあり、親戚どうしの昔話に後々までのぼるぐらいの一大イベントでした。

軽い外食はたまにありましたね。母親が不調のときとか。。 外食というよりは、記憶に残っているのは、出前ですかね。店屋もの。

今書き連ねたような生活って、けっこう幸せな状態ではないでしょうか。
(それに、作る側も、作るものが決まっていたほうが、楽では?)
そして、どこの一般家庭でも、おおよそこんな食生活でした。

でも、こういった選択の幅の少ない食卓を続けていた理由は、ホントは単にお金がなかったからでしょう?

節約することが、結果的に栄養上もより良い食事になり、規則的な生活にもつながり、皆が「地味に幸せ」であるという状態。

現代社会でも、栄養のことをホンキで考えて、バランスのよい食事になるようローテーションを考えて、あとはそのローテーションでずっと継続したほうが、幸せになるような気がするのです。

「たまには焼肉を食べたい!」とかありますが(私もあります)
それも、半年に1回とか、そういうローテーションに組み込んでしまえばいいのです。そうすればそれを楽しみに生きてゆくことができます。

ムカシの我が家も、給料日とかボーナスが出た日とかは、それなりに豪勢な食卓でした。それも立派なローテーションです。

月に一回(今考えれば、給料日の後)、日曜の昼は、皆でデパートに行き、レストランで食事をする、とか。。
すごく、幸せな光景だと思うんですけどね。


ムカシ、庶民が皆質素な暮らしをしていた時代、誰も彼もが抑圧されていたでしょうか? 誰も彼もぱーっと遊びたがったでしょうか? ある程度「日常」に満足していませんでしたか? そこに「諦観」はあったか? ほとんどなかったのではないだろうか?

前にも書きましたが、結局皆が皆、「身の程をわきまえていた」と、思うのです。(【重要】マーク)


現在、オトナのヒトたちの多くは、昭和の日本にノスタルジーを感じているのでしょう? それはつまり、貧乏な時代への郷愁です。貧乏な時代とは、ライフスタイルの選択範囲が少ないということです。そして、食事のえり好みもできないということです。
それでもいい、あるいは、そのほうがいい、ということでしょう?


ところで、睡眠とか食事とか、生きてゆくのに絶対必要な行動以外の、「趣味」の域にはいるような活動も、徹底して規則的に、たとえば1日5分とかでも、やったほうがよさそうです。これは、最近日記に書き出しているとおりです。

もはや、現代人は多様化するライフスタイルへの適応、選択にうんざりしているのでしょう。情報が多すぎて。だから、選択が少なかった時代への羨望を感じているのでしょう。

私は、情報を遮断しているので全くうんざりしていませんが。。
情報を遮断し、ノウハウを与えられるのではなくて、どのようなライフスタイルを送ろうか、自ら主体的に考えて計画しているので、わくわく感すら感じているのです。


結局、生活に「リズム」をつくることが非常に大事だ、ということをいいたいんでしょうか。(私は)
日課/週課/月課/年課を設定することにより、日/週/月/年の生活のリズムをつくる。そうすると我々庶民の「幸せ感」がアップする。

「課」というコトバが悪いのかもしれませんね。「イベント」でもいいんですよ。それが日常に組み込まれているのであれば。

  • (つづき)ムカシの生活

ムカシのような規則正しい日常生活を送ろう、という話の続きで。。
でも、すべての生活をムカシのように戻したい、っていうわけでもなくて。。

皆が皆、同じように紅白歌合戦力道山のプロレスを見ているような世相もイヤだし。。
でも、世代間共通の「思い出」ができるのはいいのかもしれないですが。。 視聴率80%とか、どうも気持ち悪いです。

皆が皆、土曜が半ドンで日曜休みで、日曜のごった返している行楽地に同じように出かけて、へとへとになって帰ってきたり。。
これはまさに「よりぬきサザエさん」の世界。

「思い出」の話に戻ると、ムカシの、生活において選択が少ない時代は、皆が皆万博に行って、何とかパビリオンに何時間も行列して。。 で、それが世代間の共通体験になっているわけでしょう。その「体験の共通」というのは、必要なような気もしています。

視聴率が高かったといわれるテレビ番組は、コドモのころほぼ皆が見ていましたし。たとえばドリフとか。。

とはいっても、これだけ価値観が多様化している現在であっても、最大公約数的な共通体験は、変わらず皆持っているような気がしますね。
たとえば、ユーミン、サザンといったような。。
歳をとると妙な反抗気分がなくなり、ユーミン、サザンの「スタンダード」「歌謡曲」としての素晴らしさがわかってきます。そのベースとなるのはクオリティの高さなのでしょう。


今の時代は、ムカシの生活習慣の「良いとこどり」をできるわけです。それが我々に与えられた特権なわけで。
「豊かな生活の証」とでもいいましょうか。

オトナもコドモも、崩壊しつつある「規則正しい生活習慣」を取り戻すことこそが、高度資本主義社会における選択可能な「豊かな生活」、すなわち「個性」であると信じて疑ってないわけですね、自分は。
だからやってみたい(実際やっている)わけです。