元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「残らないものにお金を使う」こと 努力してるけどすましている

トピック(本来の「日記」部分)

  • 久々にプライベートで飲み

20年前ぐらいからの友人と飲み。半年ぶりぐらいでしょうか。
自分が、友人で定期的に連絡をとり、定期的に飲んでいるのはこの人だけです。
確かに、自分は友人が少ない(近くに)というのはありますが。。

そのへんの日記のような「今日は学生時代の友人と飲み」なんて頻繁にはありません。
もし30代後半もすぎて頻繁にやっているというのであれば、なぜそんな暇あるのか? と思ってしまいますが。。

お酒の席は、オトナになるに従いビジネスが中心になってくる(職場の飲み会含め)のは当然のことでしょう。

ただ、昔からの友人と、何年かぶりに会う、というシチュエーションは自分にもあり、それは楽しみです。「何年かぶり」だから良いのではないでしょうか。

  • 体調

で、ビールを飲んだので頭が重いです。。
飲んでいるときは楽しいですが、頭が重くなってから後悔しました。いつもいつもいつもこの後悔ばかり。。
飲み会には行くけどノンアルコールで、というふうにシフトしてゆきたいものです。これも今年の抱負にしましょう。。

かかとのひび割れの痛みは継続。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 「残らないものにお金を使う」こと

が、好きなんですよね。残らないものとは、食事とか。。
以前は嗜好品も入っていたのですが、最近は嗜好品とは縁が切れつつあり、良い傾向です。

おいしい食事をするのも、旅行と同じで「経験」を買うに近いのではないでしょうか。
旅行で別な空間に飛ぶのも、都心の中の「隠れ家」に潜むのも、異空間という点では同じではないかと。

人におごるのも嫌いじゃないのです。大好きというわけでもないけど。。
おごるという行為も「残らない」ですよね。でも、もしかしたらその行為をすることにより相手にとって良い経験を提供できたかもしれない。
そしてあわよくば自分に対して好印象をもってくれたかもしれない。あまりそこまでは考えませんが。。ゼロではありません。

人にプレゼント(モノ)を買うのが嫌いなのです。同じ「施し」なのに何が違うのでしょう。その「モノ」が相手の生活の中で生き続けるのがイヤなのか? そんなことは別にないと思いますが。。


完全に矛盾する考え方として、自分は、時計や靴を集めるのが好きです。(安物)時計や靴については「数」がほしいと常に願っている。
これらは完全に「残るもの」ですが。。

生活に直結するモノであれば、良いのでしょうか。自分にとって時計や靴はぜいたく品ではなく生活の一部で、飾っておくのではなくてローテーションして使ってゆくものです。
自分は時計や靴は好きですが、壊れたりしたら捨てます。なぜなら、ローテーションから外れる(使わないものになる)からです。

生活必需品やそれに近いものであれば、ふんだんに身の回りにあってほしい、ということですね。ということは自分の部屋、家がムダなものたちではなく「必需品」に覆われていればよいのですね、自分は。


絵画や、家に飾っておいて目を楽しませるためのモノ、一見ムダなものたち(と私は考えてしまいますが。。)を集めるのと、自分がお金を使う「残らないもの」とは、趣味という点で共通している、ということです。

久々に、良い着地ができました。

  • 「努力してるけどすましている」

という、「生き方」とでもいうのでしょうか、そういうのがいいなあ、というのは、おそらく子供の頃から考えています。
常にそうありたいと思っています。それを実践するカンタンな方法は、余計なことをしゃべらないということです。そこまではわかっています。

自分の周りには、それに近い感じで頑張っている人もいるのですが、「最後の局面ではぶちまけたい」というか。。
バーのマスターや、小料理屋のママに、「オレだって頑張ってるんだよ!」とぶちまけてしまうようなイメージです。最後の最後で。

それを悪いといっているわけではなくて、自分の目標は「最後まですましている」ということです。
まあ、このブログ、日記の類が「最後の局面」にあたるといわれてしまったらそれまでなのですが。。

ただ、結果を出さないと何ら意味はありません。
結果が出ないから、最後にぶちまけたくなるのでしょう。
結果というのは、継続して水面下で努力してきたという事実を周知する手段です。
他人からみればいきなりあいつは結果を出しやがって、というふうに見えます。結果を見せつけることにより、「あいつは人が見ていないところでこつこつ努力していたのか。。」と認知させることができます。
結果により認知させることができなければ自分で言ってしまう他ないのです。


「努力してるけどすましている」の正反対の生き方、つまり、人に努力を見せつけている人には要注意ですね。
これは、ルーティンワークにすべきものをルーティンにできず、常に非日常のものとして「頑張ってるんだぞ」と強調してしまう輩たちの話と似ていますね。
ブログで日記を淡々と公開しているのはまた別なのでしょうけど。。 それはルーティンワークの一部でしょう。


山形浩生さんの本の中にありました。「ハッカー(古い本なので「ハッカー」という言葉が使われています)は努力の跡をみせない」という話で。。
「バグがあったんでちょっとパッチを適用してみたよ」としらっとしているが実際のプログラムを見るとすごく努力した跡がみられる。。と。そしてそのパッチも、ムダなものではなく皆の役に立つものであり、皆から尊敬を受ける。。
尊敬を受けながらも「あいつ、楽しそう」と思われるという。。
尊敬を受けるベースは、このハッカーのケースであれば「技術力」です。その「技術力」を得るために、過去にも努力してきたのだろうなあ、というオーラのようなものが透けてみえてくる。。(わかる人には、わかる)

で、スパイスとなるのは「チョイ悪」なのでしょう。法スレスレのことをやって颯爽とくぐりぬけてゆくのがカッコいい、と。

なるほど。。これが自分の理想の生活なのかな? 違うような気もしないでもないですが。。
ひとつの自分から自分への意見としてたまわりましょう。
(【重要】マーク)

今日は快調ですね。頭は重いのですが。。