元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

銀座八(活動) 不安をなくすためには ボリュームを提供

【トピック】
仕事関係で銀座へ。全くの徒労でした。が、結果的に「活動」できたことはよかったです。
【外食・食べることに関して】
銀座一丁目ジャポネへ。

【活動・活動に関して(散歩、都市論etc)】
銀座7〜8丁目の昭和通より東側、「料亭地区」を散策。



【自分について】
[不安をなくしたい]
ふと気付きましたが、自分にとっての「重要案件」とはつまり、すべて「自分について」なのではないかと思いました。自分がどういう意見を持っているか、というのを体系立てて整理したい、ということでしょうか。
学生の頃は常に暇だったのでいろいろ考えをめぐらせていましたが、最近は日常に忙しくそのような機会がなく、自分の脳みその中で、「自分の考え」のようなものが混乱しているような気がします。その「自分の考え」といったようなものは、若いころと比べて膨大に増えてきました。今こそ、整理する時期です。
そのための手段としての、「ネットでの日記」なんだと思います、キーボードは、鉛筆よりも自分の考えをスムーズに書き出してくれます。


ある程度歳がいってからしみじみ思うのは、中学校の頃がいちばん楽しかった、ということです。今と中学時代と何が違うか、といえば、将来に対する不安がなかったということです。中学の頃は、行く高校は完全に決まっており、かつ、高校の先については「無」でした。自分にとっての「将来」とは、見えているのは高校3年間までで、そこまでは約束されていました。

高校は、中学より楽しい出来事が多かったのは間違いないのですが、楽しくない出来事も多々あり、また、大学受験で精神的に苦しみ、将来の不安がいきなり眼前に押し寄せてきたので、中学時代と比較して「楽しかった」というイメージはありません。ただし、「充実していた」とはいえると思います。

小学校は、いろいろなタイプの子が集まりすぎていました。集団というのは、選抜されて、ある程度自分と似たような人間が多い集団のほうが過ごしやすいと思います。

楽しい生活を送るためには、楽しいことを増やすのではなく、不安要素を消してゆくのが大事だということです。
学生に限っていえば、不安要素を消すために大事になってくるのが、自分が属する「集団」です。それは、必ず居心地のよいものである必要があります。
これについてはまた別途、にしましょうか。

不安要素を消す、というのは、ずばり「お金」ですね。
そういえば中学の頃は、お金に対する不安も皆無でした。お金がふんだんにあったということではありません。お金に対して考えをめぐらす必要がなかったということです。

お金により、お金そのものに対する不安が消えるだけでなく、不安要素であるさまざまな事象は、ほぼ100%解消されます。
堀江さんが、著書で「お金があればなんでも実現できる」ということを挑戦的に書いていましたが、あれに反発した人たちの論拠は単なる嫉妬です。当たり前のことを書いているだけです。物事をすべて金銭で換算することができるのが資本主義社会であり、我々は史上最高に進化した、といっていい高度資本主義社会の中で生きているのです。

大人になってからの不安要素というのは、「社会的責任」から波及するもの、それと、扶養家族、親の老後の心配、などがすぐに思いつきます。
扶養家族、年老いた親を抱えるということは、彼らの不安要素もいっぺんに抱えてしまうことだと思います。だとすれば自分の荷が重くなってくるのは当然です。お金は、それらをほぼ完全に緩和してくれます。
お金が彼らを幸せにしてくれる、ということではありません。お金は不安を解消してあげるまででとどまりますから、そこから彼らが幸せになれるかどうかは彼ら次第です。

ですが、ふつうに働いているだけでは、扶養家族や年老いた親を「食わせてゆく」のが精一杯で、不安を解消するには全く至りません。ですので、自分の不安は一向になくなってゆきません。

ところで、「うさばらし」というか。。 不安要素がなくならない故に、ある一方では不安を一時的に紛らすための「楽しいこと」が必要になってきます。人生におけるスパイスのようなものでしょうか。

ところが、扶養される側は、扶養する人間が、不安を一時的に解消するために「楽しいこと」が必要だということ、その必要性すら理解できません。扶養家族がいるが故に不安が発生するのだ、自分たちが重荷になっているんだ、ということもわかりません。
わかってくれない人たちを扶養しなければならないのですから、大変です。かくしてこれも不安要素になってゆき、負のスパイラルにはまってゆきます。
自分や、扶養家族の不安を解消させるためにあるべき資金が、憂さ晴らしの「楽しいこと」にどんどん流入してゆくことになります。これは、どこかで踏みとどまらなければなりません。そのためには、扶養される側の理解が必要なのです。

仮に不安要素がなくなったとしたら、「楽しいこと」も特にいらないんでしょうね。だから、お金のある人は人の役に立つボランティアをしたりするのでしょう。
菩薩は、過剰に豊かな生活をできたが故に悟りを開けた、という話も聞いたことがありますし。。

楽しい「イベント」が終わった後の、またこれから日常に戻るのか。。という寂寥感というのは、ありましたね。懐かしい感じがします。
今考えれば、日常に戻ることを憂いているというよりは、また不安と戦う日々が始まるのか、という「不安感のもたげ」だったのかもしれません。

なんだか、論鋒鋭く、という感じのつもりが、当たり前のことを書いているだけのような気がしてきました。

もう少し突っ込んだところまでいけそうな気はするんですが。。 その「突っ込んだところ」というのは単なる想い出話なのかもしれません。本当に、中学の頃は楽しかった、と、歳をとるとしみじみと思えるのです。
「コンプレックス」という側面で考えてゆけばよいのかもしれません。中学の頃はコンプレックスの塊のような感じでしたが、それを打開してゆくパワーを持っていました。それを原動力にし、楽しい生活を切り開いてゆけたような気がします。
ではこのあたりも翌日以降に。。

【my格言】
「『幸せ』とは楽しいことではなく、不安がないことである」

以前に日記でまとめたのは「本当に成功している人とは、やりたいことをできる人ではなく、やりたくないことをやらずに済ますことができる人である」
http://d.hatena.ne.jp/StevenGerrard/20060901