神に誓うな、己に誓え
藤原基央さんの「神に誓うな、己に誓え」(?だったかな)という言葉の、何が素晴らしいかというと。。
これはね、結局、「神」というのは己を通して存在するってことを逆説的にいってるんだよね。
神ってのは、人格あるいはそれに類するものではないから。そもそも人のカタチなんかしてるわけないでしょ。
「一般的イメージの神」に誓うなよ!ムダだから!といってるんだ。
神っていうのは「超越的存在」っていうこと。ちょっと具体的にいうと村上和雄さんがおっしゃっているけど、人間の遺伝子を設計した存在のことだ。宇宙をつくった存在、でもいいけど、それじゃあちょっとハナシが大きすぎるから。
村上和雄さんのおっしゃるとおり、人間は遺伝子を解読はできるかもしれんが、人間をつくりだすことはできんだろ。最初に生物を創造した「存在」というのは必ずいるはずなんだ。そして生物を、こういうカタチの「人間」っていうものに進化させた「存在」には、「意志」と「目的」はあると思うんだよね。
そういうデカすぎる存在に対して「神頼み」したくなることは、あらあね。だって人間って超越的存在じゃねえし。何か非常に困ったときに「路傍の石」に祈るバカはいねえだろ。神社にいってもいいけど、路傍の石をみるより「上」を見るだろ?超越的存在は「空間」にいるような気がするんだろ、人間の本能として。
でもな、最終的には、つーか、いちばんしっくりくる「祈り」って、目をつぶらないか?視線は、正面やや下を向かないか?
目をつぶる祈りって、あれって外部に祈ってねえだろ、どう考えても自分の内面だろうが。
たとえばキリスト教のヤツらって教会で、キリストの真下で祈るっちゃ祈るけど結局目つぶってない?
ってことは結局己、つーか自身の「心」に祈ってんじゃん。