元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

中村とうようさん


[引用]中村とうようさん|(改題)ひとり公論

中村とうようさんの70年代のエッセイです。

(以下)
クラシック音楽のような純粋芸術は、まるで精神性のカタマリみたいに思われているかもしれないが、実際には、クラシックもロックも歌謡曲と同じように資本の生産する商品としてレコードが作られ売られるからこそ、多くの人が聞ける。そういう、タテマエとしての「精神性」と経済的な実体としての「商品性」との矛盾を、文学だろうが絵画だろうが音楽だろうが、資本主義のもとではすべて避けることはできない。では、自主制作のミニコミなら精神性が貫けるかというと、文字どおりのミニなコミュニケーションでは、単なる自己満足でしかない。広く伝達されてこそ初めて文化と言えるのだ。その伝達を、資本主義のもとでは「流通」と呼ぶのである。真の芸術はどうせ世に受け容れられないものなんだ、聞き手なんていなくていいさ、という考え方でシコシコやる人もいたってかまわないが、ぼくはそういうのには興味がない。資本の力にねじ伏せられてしまわないように必死で戦いならが流通の場で大衆を捉えて行くような、そんな音楽をぼくは求めているし、その資本との戦いにこそ、精神性が発揮されると思う。戦いを放棄して資本と妥協した音楽には、そのような精神の高まりはもちろん見出せないに違いない。
メッセージ・ソングだけで世の中を変えられるなんて信じている人はいないだろう。だが、歌の中にメッセージを盛り込み続けるのも精神性の発揮のあり方のひとつだろうし、歌だけでなく、ぼくなんかも書く文章にメッセージを持ち続けたいと思っている。