元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

年配のそば打ち趣味についての違和感

年配のそば打ち趣味についての違和感

年配になると「そば打ち」に興じるようになったりすること。

年配になると「やっぱり京都」と言い出すこと。京都の中でも、祇園河原町といった繁華街ではなく、三千院寂光院といったあたりを。

自分の家あるいは個人事務所、事務所兼住宅に、「○○庵」と(へいきで)つけてしまうことに対する違和感。

書いていてわかりましたが、これは、「わびさび」の問題なのです ね。

「わびさび」に対しておおいなる勘違いをしている。「上っ面だけわびさび」とでもいいましょうか。。

たとえば、「まず外見から」というのはとてもよいと思うのですが、外見で終わってしまう、といったような。。

そして、年配になったらかならず「わびさび」に嵩じなければならないかといえば、そうでもありません。

結局、反面教師なのですね。自分は、そうはなるまいとしている。

川崎徹さんが、「洒落た和服や、作務衣を着る類の人間にはなるまい」といっている(直接本人から聞いたわけではありませんが)のと、通底するのだと思います。

川崎徹さんは、わざわざ外して、こだわりをもって「ちゃんちゃんこ」(? でしたっけ)を着ているのだとか。それはそれで。。照れなのでしょうね。

寅さんが映画の中で、女性物の半纏をまとっているのも同じなのでしょう。

僕の思う「わびさび」とは、突き詰めれば何もしないことです。この現代社会で。そばや風景や土地に対してどうこう、ではなくて、自分なのです。