元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

副都心線

本来の日記部分

昨日はコドモの付き添いで、副都心線開業初日、しかも始発に乗るために朝5時に渋谷へ。
詳細はカレンダーに記載しています
コドモにとってはよき思い出となります。

カレンダー(予定の記入というよりはほぼ日記)

再録

(略)
電車の中でずーっと泣いている赤ん坊がいて、乗換えまでの10数分間、自分にとってその空間は非常に苦痛だったわけです。自分は、相当疲れていたので。

でも、「なんとかしてください」とその赤ん坊の母親に指摘したところでその泣き声がおさまるわけじゃなし。母親ですらあやしきれないわけですから。。

ある意味悪いことに、その赤ん坊の母親はあたふたしてしまっていて、とても「ヒトのよさそうな」感じにみえるわけで、とても文句なんかいえるような雰囲気ではないわけです。となりに、幼稚園生ぐらいの兄妹もいて、不安げにしています。

かくして、同じ電車に乗り合わせた数十人、あるいは百人ぐらいの人間は、同じように不快感を感じながら、それでも何もいえず、家路につくわけです。

もし、この場で「オレはアタマにきてんだ、なんとかしろ」などという発言をした日には、途端に「ココロの狭い人間」というレッテルを貼られてしまうのです。その母親にだけでなく、そこに居合わせた全員から。

コトバを選んで「なんとかしていただけませんか」といったところで結果は同じでしょう。

だから、その場は完全に沈黙しています。皆が皆、それぞれの世間話をするにはその赤ん坊の泣き声は大きすぎるのです。指摘しようにも母親の「いいヒトオーラ」にブロックされて何もいえない状況です。

でも、あの雰囲気は異常なのではないかと感じました。逆に考えればあの母親は、困っているのに完全に無視されているわけですから。

あの雰囲気は異常だとは思ったのですが、もしかしたら10年20年前よりはまだいいのかなあ、と思えたりもして。。 ムカシだったら、そういう状況だったらいたるところから舌打ちとかひそひそ話(あの母親のしつけはどうなっているんだ、的な)が聞こえてきていたと思うのです。

そして、その母親に先輩気取りで(良い意味で、です)話しかけてくれるお年寄りもいたことでしょう。「大変だねえ」と。「コドモはどこか痛がってるんじゃないか?」「おなかすいてるのでは?」とか、言ってくれる人。

と、マンガの話から完全に離れてしまいましたが、とにかく、何か不快な状況の際にギリギリまでこちらが引き取ってガマンする姿勢をみせないと、「ココロの狭い人間」と思われてしまうような世の中です。