元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「海底のほうがよっぽど美しい」

my格言・my座右の銘(自作自演)

  • 嫉妬羨望というフィルタを通した他人の評価というのは100%間違っている。(20070927)

抜粋・紹介

人間、この不思議なるもの (河合隼雄全対話)

人間、この不思議なるもの (河合隼雄全対話)

河合 (略)ある方が来られましてね、いつもいつも愚痴をこぼしていかれるわけですね。その方が「どうも先生をごみ箱がわりにして申しわけない」嫌なことばっかり言ってと。私がそのときに「いやあ、ごみ拾いしておったら、ときどきダイヤが混じっておるので、この商売やめられません」と言ったんですけど、つまり人はごみだと思ってるんですけど、ダイヤモンドが入っておるわけですね。それが見えるから仕事をしてると。ところが、そこからもうひとつ次の大問題は、ダイヤがみえないやつがあるんですね。
遠藤(周作) なるほど、ぼくもそうだと思う。それなんですよ。
河合 つまり、もちろん一般論としては―子供さんなんかとくにそうで、私よく言うんですけども、プラスのことはだいたいマイナスの形であらわれてくると。つまり、元気になる前にはしゃべりになるかも分からない。元気になる前はうそをつくかも分からないというように、マイナスであらわれて次プラスにいくわけですね。そんなのは分かりやすいんです。そんなのは分かりやすいけども、その半面のプラスが見えない絶対的マイナスという、これが私にはすごく問題なんです。
遠藤 (略)いま河合さんのおっしゃったように、どうしてもプラス点の見えない悪というものが人間の中にあるんじゃないかと思って、(略)罪だと、まだ上昇するものがありますが、悪のほうは下降だけどどんどんやっていくんですよ。(略)下降して、バウンドして、バーンとこういかない。下降の中に快楽があったり美があったりするんでね。これは、きょうぼくがお聞きしたい問題のひとつだったんですが、いったいどこから来とるのかいなと、まず思うんです。これにもやっぱり何か深い、人間として、われわれがまだ目の届かない深い何か生命の意味があるのかなということなんですがね。
河合 (略)本当にたまらないのは、ある一人の人にとって、ともかく何であれ、いま言いました下降が始まるわけですね、ずっと。われわれはその下降にずっとついていってるわけです。相当なところまでついていくというのは、どこかでバウンドして上がるからですね。たとえ話で私はよく言うんですけど、われわれは沈め比べみたいなことをやってるんだと。ぼくの息が続くか、向こうの息が続くかね。そして下降して下降して、底まで着いて、上がったらいいと。ところが、ぼくの息が続かんときがあるわけですね。そういう場合に、でも何とかついていくほうがいいのか。そしてまた、実際にこっちの息が続かんから上げようと思っても、向こうはなかなか上がらんわけです。そういう人はね。そういうことにぼくは常に直面してましてね。そして、そういう人たちはわれわれを非難するわけですね。つまり、簡単な言い方をすると、おまえは何も上に行って息することがいいと思ってるかもしれんけど、海底のほうがよっぽど美しいじゃないかとかね。
遠藤 そうそう、そう言うんですよ。そう言うし、そうだろうと思います。
河合 ええ。そのときに、私はすっごくジレンマを感じながらやっているんですけども、非常に簡単な答えを言ってしまいますと、簡単すぎて申しわけないんですけども、やっぱり私の命のほうは大事にしなくちゃならないと思ってるんですけどね。私の命を捨ててまでついていくことはやめたほうがいいんじゃないかと思ってるんです。
遠藤 それは分かります。(略)どんどん沈んでいくとき、途中でもう息が続かないというのではなくて、本当は息は続くんだけど、このあたりでもう逃げないかんと思って逃げていくわけでしょう。それが怖い。ユング派の河合さんに聞きたいんですが、いったいあれは元型ですか、それとも欲望ですか、本能ですか。
河合 ユングは、やっぱり元型的なものと言ってるんです、それは。(略)ユング派の方たちはみんな、(略)真の自己みたいなことをいいますね。私が今話をしているのは、意識している私ですけども、それを超えてもっともっと深いところに本当の自己みたいなのがあると。ところが、その本当の自己の影というようなことをちょっと言ってるところがあるんです。そこにさえまだ影があると思ってるんですね。ところが、そこで口をつぐんでるんです。この問題は恐らく非常に論じるのは難しい。(略)
遠藤 しかし、最後にぶつかる問題のひとつですね。
河合 (略)私はちょっとずるいんですけども、非常に大事なことは、自分の心の中にそういう部分があるということ、これを認めないわけにはいかないんで、認めることがまず大事ですね。ところが、それだけではないでしょう。それと、(略)私の家族もいるし、私の友人もいるし、それからうまいものも食いたいし、いろいろありますね。そういう全部の中にその悪も位置づけられてるわけでしょう。だから、そこだけにすがるというのはだめで、そこにいってでもやっぱりぼくらの心をできる限りのものにオープンにしてたら、そういうもののおかげでとまるんじゃないですかね。
遠藤 そうそう。ですからね。つまりさっきから女房にしかられるとか、世間体とか言いましたけど、そういうものがとってもぼくは大事であるという。
河合 ぼくはすばらしいと思います。常識というのはすごいものだと思います。


遠藤 聖書の中でイエスが裁かれて、いろいろ迷ったりしていますね。(略)あのとき群衆は、イエスがずっとゴルゴダの丘までひきずられていったとき、笑って、そして石をぶつけますな。(略)群衆が石をぶつけたということはいったいどういうことであったかということを論じてるイエス伝てないですね。(略)ぼくはクリスチャンでしょう。(略)それがこんなこと言ったらしかられるかもしれないけども、もし私がその前におったら必ず石をぶつけたろうと。つまり、まず弱さでぶつけたとおもいます。みんながぶつけろと言って、断りきれずに届かんようにぶつけておると。そのうち届いたりして、カーンとイエスに当たって、血が流れたりすると、ある快感ができて、それからぶつけ始めるということが自分の中にないかといったら、たしかにあるんですよ。だから、これはぼくは大変なことへぶつかってしまったと。しかも、この年齢でぶつかってしまったんでね、弱っておるんです。
河合 しかし、この年齢にならないと、それはなかなか分からないんじゃないでしょうか。そして、ぼくら同じような年齢だと、そのあたりで分かるから、これは本当に意味をもつんであって、若い人たちは分かるよりもやられてしまうんです。幸か不幸か。その存在に気づかされた人たちがいるんですね。気づいたんじゃなくて。気づかされた人たちがわれわれのところへ来られるわけでしょう。
だから、そういう人たちはね、また叫びたいところがあるんです。「おまえら、ないと言ってるのに、あるじゃないか」ということをものすごく言いたいんですね。「おまえらの心にみんなあるじゃないか」と言いたいところはあると思うんですよ。

(抜粋・紹介おわり)

けっこう「キビしい」対談です。。