「自由になれた気がした。。」のはいつか
オイラは社会人になって初めて「自由になれた気がした」んだよね。(盗んだバイクで走り出したりはしなかったけれど)
言い方をかえれば、社会に放り出されて、孤立して、はじめて「ああ、これがホントウの自由なのか」と思いを新たにした、というか。
学生特有の縛りがなくなったというか、学生というのが箱庭の自由であることにあらためて気付いたというか。。
社会人になると学生時代の「トモダチ」とやらに会う機会がなくなる、とか、あるいはたまには「こないだ学生時代のサークルの『ナカマ』と飲んでさー」と誇らしげに話すとか。。
「社会人になると、会社の『トモダチ』ができない」と嘆くとか。。
こういうヤツ、すげーたくさんいる。
なんか「苦々しい」というかね。「自由でよろしおすな」みたいな。。
社会に出てもまだ、学生時代の「箱庭の自由」を求め続けている。「学生時代のサークルの『ナカマ』と飲」むっていうのは、そのときだけ箱庭の自由に逃避する口実に他ならない。
そういう風景を評して「そのときだけは時計の針が戻ったような気がした」なんて、書くコラムニストなんちゃらとかいうヤツらもいる。
でも、それって「箱庭の自由」時代に縛られ続けてるだけだと思うんだよね。
精神的な「呪縛」ね。
それが「呪縛」だってことに気付いてないんだよね。