元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「思想」をしない時代

クラシック
「思想」をしない時代
若くて、時間がある世代も、そうでない世代も、「思想」をまったくしなくなってしまっている、ということを、自分は僭越ながら憂いています。

でも、憂いていながらも、他がやっていなければ、自分だけが「やれている」と感じられてよいのですが。。

せめて自分だけでも、個性的であらんとするための一手段にすぎないのだとしても、独りであっても「思想すること」を趣味にしよう、と決めつつある わけです。

もうひとつ憂いているというか心配なのは、もし仮に、時代が変わって、ヒトビトが思想することがトレンドになってきたとしても、すぐさまマスコミ によって囲われて「型」にハメられてしまって、真に自由な思想ではなくファッションとしての思想にすりかわってゆくのだろうな、ということ。

おそらくそれは「あっという間」であろうと推測されます。

現代社会においてはすべてがパッケージ化、ファッション化され、型にハメようとする「魔の手」が存在します。

それはなぜ存在しているかというと、「邪魔者は消せ」というファッショが暗躍しているからですね。

庶民が自由な思想をしたり自由に表現したりすることは、ある「層」からみると「危険」にしか見えないのです。

だから、なるべく反対意見がでないよう、ゆっくりと確実に、懐柔して型にはめてゆく。ほとんどの庶民は気付かない。気付いたとしても「ま、いっ か」と流してしまう。これこそまさに「思想」の訓練がされていないがためです。

思想とは本来千差万別であってわかりずらい、コムズカシいものです。それが、わかりやすくパッケージ化されている時点で「思想」ではなく、また、 そのパッケージが売れるということは、パッケージ化された思想を買った人間が「コピペ」して取り入れようとするのですからそれも「思想」ではな い。

二重の意味で「思想」ではない。

そして。。 「思想」でなくなったモノ、これが何になるかというと。。「イデオロギー」に変化するんですねえ。不思議なことに。パッケージ化を行 う人間のイデオロギーが注入されてしまうのです。だから、思想というのは誰かの意思が介在することによりどうとでもなってしまう。

だから、自分で考えて自分の中で消化、完結させたほうがよいのです。ヘタなイデオロギーも消化してしまったら、しばらくするとタイヘンなことにな ります。

イデオロギー」にならないほうがまだマシですね。イデオロギーにすらならないものはただの「思想の断片」であり、よくわからないものです。

こういうのもマスコミの大罪のひとつなのです。マスコミは庶民から精神的思想的自由を略奪する。庶民は略奪されることが快感になってきている。そ して、カンタンにいえば「バカ」になってきているのです。為政者からみて。

だからといって思想をやめることが得策だとも思わないのです。

それは「思考停止するための思想」であって、定義矛盾が生じます。

思想とはまず、とにかく考え続けるというのが大前提としてあります。それは、訓練すれば誰でもできます。逆にいえば、考え「続ける」ことは訓練し ないとできません。

それこそ思想を放棄してしまった現代人には「考え続ける」ということはもっともキツい修行のひとつかもしれません。

そこを突破しなければ。