元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

金言について

金言というのは、たとえば一代で財を成したとか、大きな仕事をやり遂げたとか、そういうヒトのコトバであって。
そういうヒトのコトバというのはそれは重いですよね。一言一言が。

はっきりいって、そのコトバ自体の意味合いが大したことがなくとも、その人間のバックボーンが透けてみえるから、有無をいわせない。

ところで、まったく名を成していない僕も金言を日々、生成しています。
僕の場合は、バックボーンが(他人からみて)ないので、コトバそのものの「質」で勝負かな、と。

すべての世の中の「金言」が、仮に「詠み人知らず」だった場合は、純粋にそのコトバの質で評価されるわけです。
そういう状況はありえないでしょうが、僕の場合は詠み人知らずで勝負できるコトバをつむごうとしています。


ところで。。
僕はそもそも「名を成す」気が旺盛でないといいますか、若干うらやましいとは感じつつもそれほど欲求が強くないのですが、名を成すヒトたちと同じぐらいには人間的に高まってゆきたいと強く思っています。

いくら、発するコトバの「質」で勝負しようといっても、それはコトバの「技術」(レトリック)ではないのですから、やはり発する人間のバックボーンが透けてみえるのは仕方のないところです。
つまり、受け手が、「この文章は詠み人知らずだけど、おそらくそれなりの人生のバックボーンを持っているのだろうなあ」と、想像してくれればベスト。
それだけで、いいのです。


薄っぺらい人間からはやはり薄っぺらいコトバしか出てこないのです。それはけっこう、「如実」ではあります。

たとえば売れる作家というのは、言葉のつむぎ方の「技術」がうまいだけではないのです。(もちろん、技術も必要です)

薄っぺらい人間が公に対して、技術だけでコトバを発してゆくのは、犯罪的行為かと思います。(ただし、プライベートの枠の中や、狭いコミュニティでやっていただく分には、いっこうにかまいません)

同じように、薄っぺらい人間が「世に出る」あるいはそれどころか、薄っぺらいまま「名を成す」のも犯罪的行為かな、と、最近思います。