元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「選ばれたヒト」に努力してなれるものか

人生観、のような、思想の話

  • 「選ばれたヒト」に努力してなれるものか

人間が幸せ、というか、「カネ持ち」になるためにはどこかでリスクをとらなければならない、というのはよくいわれることですが、

「選ばれたヒト」というのはそもそもリスクをとる必要がない。

「選ばれたヒト」というのは単に運がよいヒトとは違う。

何が違うか? おそらく、運がよいというのはおそらく一過性のもので、人生全般で眺めればその「運がよいだけ」のヒトはバランスがとれていると思います。たとえばどこかで宝くじ1億円あたったのならば、どこかで事業に失敗する、といったような。

ただ運がよいヒトというのは凡人。誰もが、一度は運気がめぐってくるものです。


その「選ばれたヒト」に努力によりなれるのか? なれないのか? というのが僕の研究テーマといいますか。。

「選ばれたヒト」というのはイコール、才能のあるヒトということか? という疑問におきかえてもよいと思います。

才能というのはいかんともしがたいもので、たとえばどんなに努力したところでプロ野球選手にはなれない、というのはよくいわれることです。

でも、才能があるイコール選ばれたヒトではないだろう、と。

ムカシは、ほぼこの等式が成り立つと思っていたのですが。。

才能があるからといって(時代に)選ばれるとは限らない。

選ばれたヒトがある分野で卓越した才能があるとは限らない。

コドモの頃神童と呼ばれていてもほぼ凡人に落ち着くわけですし、高校野球でスーパースターであってもほとんどのスーパースターはプロに入って伸び悩みます。

その代わりに、俗に言う「努力家」と呼ばれるヒトたちがノしてくる。

ということは、やはり、選ばれたヒトというのは所与の、天賦の才ではなくて、いつも僕が日記で書いているとおり「努力を継続できるヒト」ということになるのでしょうね。。
(いつもと同じ結論ですか)


でも、努力を継続できたところで、多くの凡人はそのまま凡人です。

努力を継続できる才能と、「ある程度以上」の、とある分野で秀でている才能と、そのふたつの絶妙なバランスということなのでしょうね。

この「絶妙なバランス」というか「調合」というのが「神の領域」なのかもしれません。