元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

庶民の菓子折り 小説サークル

「世代間」の話

  • 菓子折り

「庶民の総体」から抜け出るために、何かヒトに抜きん出るようなことを「仕掛ける」場合、「先にやるよ、じゃあね」とあからさまにそれを表明すると「庶民の総体」の嫉妬羨望の集団攻撃にヤられてしまうので、相応の根回しをしなければなりません。
それは、工事現場の主任が菓子折りをもって「うるさくしますがよろしく」と近隣を回るのと同じですね。
実際、「菓子折り」と「役職付が『わざわざきて』あいさつしていった」という効果は絶大であり、ゼネコンはそのことをよーく知っています。


この労力が、個人の生活ではムダだというのが私の考え方です。きわめて馬鹿らしい。
ヒトはヒト、という考えが庶民社会に真に浸透しているのであれば、ヒトに抜きん出ていろいろやることで他人に危害を加えているわけでもないのですから、その「菓子折り持参」はそもそも不要なはずなのです。

なぜ「庶民の総体」というのは、自身から抜け出ようとする勢力、あるいは個人に対して冷たいのか? それは、現代社会においては「庶民の総体」とは「『庶民の総体』ではなくなりたい」という勢力そのものだからです。
それは、ほんの数十年前までは、そうではなかった。
「庶民の総体」は今よりももっと強固であり、庶民は庶民でした。

ところが、その「庶民の総体」が、自身から抜け出ようとする勢力、あるいは個人に対して攻撃をするという点ではムカシも今も同じです。その攻撃のモチベーションが、現代のほうが陰湿であるということ。なぜなら「嫉妬羨望」を原動力としているからですね。

ムカシの攻撃の理由は、今とはちょっと違いますね。
「オマエに抜け出せるわけがないだろう! 身の程をわきまえろ」という攻撃のモチベーション。「うらやましい」ではないのです。


ところで、だったら「抜け出る」ときに黙って抜け駆けすればいいのではないか? とも思うのですが。。

これはムズカしいところで、ヒトは、抜け駆けするときに、それを他人に自慢げにしゃべってしまいたいものなんですよね。黙っていられない。

たとえば、コドモですと。。
「ウチ、夏休みはハワイにいくんだ、いいダロウ!」と、うれしかったらまず言いますね。それに対して「アタシなんか沖縄よ!(ちょっと負けているので憤怒)」「ウチはおばあちゃんの田舎にずっといる。。(毎年同じだから。。というあきらめ)」などなど、矢継ぎ早のレスポンスがあります。
カレらにはカレらなりの「序列」の根拠があって、「ふん、ぜんぜんうらやましくないもん!」ということを言いたいのだけれどもロコツに羨望の念を出している。コドモだから感情の抑制はききません。だからわかりやすい。

オトナの社会も似たようなものです。と、いいますか、最近似てきました。

コドモほどロコツではないにしても、なんとかして「表明」をしたい。自ら、自らが属するコミュニティ内で差別化をはかりたいのです。

旅行の例を出しましたが、ヒトが海外旅行に行くのは他人との差別化をはかりたいわけで(実はちっとも珍しいことではなくとも)、突き詰めれば、そのヒトが属するコミュニティで自身の差別化をはかれないのであれば、海外旅行はしないのではないでしょうか。

たとえば海外旅行が常態化しているコミュニティに属しているのであれば、差別化のためにあえて箱根とか熱海を選択するという「フェイク」もアリでしょうし。。

そして、差別化を図ることが目的ですから、言わなければ意味がない。自己満足に浸って終了、ではなくて、他人に差別化を表明することによって意識させなければ目的到達ではないのです。

「庶民の総体」に対して、差別化を表明することが意識的なのであれば、攻撃を受けることも想定内のはずですが。。

これを書いていて「宝くじで1000万円あたったとして、ヒトは隣近所に黙っていられるだろうか」というハナシを思い出しました。


あれ?いつものように論点がズレてきましたね。。

そもそもの引っかかりは、皆が「ヒトはヒト」であれば、隣人宅が海外旅行にいってウチが熱海一泊でも何ら問題はないはずだ、ということから始まっていたのですが。。

「どうだ、うらやましいだろう」ということを、コドモ世界ほどロコツではないにせよ、差別化のためにじわじわと「表明」する衝動をおさえきれないというのは、それはまたいかにも庶民的な行動であって。。

「庶民の総体」に属していなければ、別に黙っていてもゼンゼンオッケーなような気もしますね。いや、旅行に行かなくともよい。行ってもよい。

なんだか禅的な着地だなあ。。まあ自分らしいというか。。


「庶民の総体」から抜け出ようとする「庶民」を嫉妬羨望の念から引きずり戻そうとするネチネチした攻撃に対して不快感があり、さらに、その攻撃を抑えようとするために「菓子折り」で迎合しようとする「庶民」に対しても「何か違うのでは?」という思いがある。

その「菓子折り」というか、「調整」の労力というか、そういうのが、庶民から抜け出ようとするヒトの才能の芽を事前に摘んでしまうのではないか、と、いうハナシだったのですが。。

最後には、嫉妬羨望の塊であるともいえる「庶民の総体」も、どうせそこから突出はできないであろう、「プチ逸脱好きの庶民」も同じ穴のムジナであって、「勝手にやってれば」という結論に達してしまいそうです。



ところで。。
観光地に行ってきた後に、土産(まさに「菓子折り」)を買って職場に配る、という風習も、自分はまったく不要だと思います。
これは「後だしの調整」です。

これをやらないと「アイツは仕事に穴を空けたクセに土産も買ってきやがらない」となる。。
旅行に行ったことを黙っていればいいのでしょうが。。それでは、自慢臭プンプンの土産話を同僚にできませんからね。
「すみません自慢させてください!」という意味での免罪、侘び代としての「菓子折り」なんでしょうかねえ。。

でも、職場では不要だと思いますが、近隣にはアリだと思います。この差は何なのだろう。


長くなってしまったので切ります。

自分について

  • 小説

小説って、最近はちょっと。。「『まったく』に限りなく近いほとんど」読んでいません。
小説に沈溺している状況ってモロ現実逃避のような気がしてならない。。

「レジャー」としては「海外旅行」などと同じ位置づけのようです、私の中では。

それと、小説家を取り巻く「サークル」といいますか。。作品をベタ褒めするのも、酷評するのも(つまり、熟読はしているということ)含めた「一派」といいますか。。そういうヒトたちをひっくるめて、「ついていってません」という感じですね。

特に、批判するヒトたち。。批判をブログだの2ちゃんに書き込むヒマがあったら。。まず、批判対象からは離れてしまえば、それでいいのではないかと思うのですが、そうもいかない「何か」があるらしくて、その「何か」をわかるか、わからないかの基準でまた排他的になっていきます。

批判(酷評)する一派も、サークル内。


このご時世に、小説世界に沈溺する時間がある、ということが。。「今」の自分には理解不能なのです。

中学〜大学ぐらいであれば、いいのです。濫読が許される時期ですから、外でスポーツなんかするよりもむしろどんなジャンルでもいいから小説を読んでほしい。
なぜなら、濫読により「世界観」のようなもの(その骨格のようなもの)が形成されてゆくからです。
その「世界観」のようなもの、は、残念ながら現実世界を生きるだけでは強固なものは形成されてゆかない。なぜならば、現実を生きるだけでは先達の意見を聞くことはほとんどできないからです。テレビもダメです。バラエティ中心ですから。。
先達の意見なり感じ方なりは、活字で残っている。それをむさぼるように読んでほしいですね。

前にも書きましたが身体の健康よりもまずココロの健康です。ココロを強固にして「トラウマ!」を予防しなければなりません。「トラウマ!」渇望症候群になってはならないのです。
それでは(身体的なたとえでいえば)麻薬中毒アルコール依存症に憧れを持つような人種になってしまいます。


おっと、また例によってハナシがそれました。。

自分も実は、電車の中などでは、小説に沈溺するヒトたちと同じように文庫本を読んでいますが中身は小説(フィクション)ではありません。

「逃避」ではなく「いかによりよく生きるか」を模索するための本を読んでいるつもりではあります。
そしてそれはHowTo本でもない。
ただただ、考えさせられる本を読みたいと願っています。


でも、ひいきのひきたおしで、村上春樹さんの小説は、ちょっと違うと思うのです。。
まァそれは好みと、過去の経緯でしょうね。村上さんの小説に過去に救われたという過去がありますから。。 それの続き。

抜粋・紹介

阿部和重対談集

阿部和重対談集

阿部:(略)僕は、賞の選考なんかで、頭でつくり過ぎているんじゃないかと批判的にいわれるんですけど、しかし当然頭も体に一部なわけで、「いやいや、むしろできる限りフルに体を使ってやっていった果てに倒れたのだ」といいたいわけです。
保坂(和志):頭を使うとか理屈っぽいというのがよくないことになっているでしょう。
阿部:何かすごく軽視されていますね。
保坂:頭を使うことやインテリであることを卑下したり、頭を使わない人が頭を使っているやつをばかにしたりするような風土があるのは、多分世界中で日本ぐらいじゃないか。
(抜粋・紹介おわり)

インテリであろうがなかろうが「頭を使うこと」は物事を抽象化するという方向に向かうと思っています。というわけでこのように日記でまず具体を書き出してから抽象に向かおう、と日々頑張っています。

なぜ日々頑張らなければならないかというと、自分は「インテリ」という資質がないからでしょう。
ですが、資質がないなりに「インテリゲンチャ」になりたいなあ、とは思う。私は「頭を使うことやインテリであることを卑下したり、頭を使わない人が頭を使っているやつをばかにしたりするような」性質はないですね。