元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

世界は自分を中心に。。2 鋼のような身体、ではなくココロ 黙する

本来の日記部分

いつか、この怒涛の「思想と宗教シリーズ」が収束したら、私が考えるヨコハマについて、書いてみたいですね。
なんだかんだで長く住んでいましたので、東京も好きですがヨコハマももちろん同じぐらい好きです。

あまり行かなくなってしまいましたが。。

青春だったのか、そうでもなかったのか、すら今はおぼろげですが、もう少ししたら「総括」できそうな気がしますね。

ミチクサ(散歩、都市論etc)

穿った見方」を抑止、自制、牽制する昨今の風潮が、政治、マスコミ、企業の暴走を止められずに促進するのだと思うのです。

まず考えること。このご時世では、ただ「考えること」すらも「穿った見方」にスライドされてしまいますが。。
ここまで「空気」を醸成したのは、いったい誰(何)なのでしょうか?

我々は何度も、政治、マスコミ、企業に信頼をブチ壊されてきたのです。それを、忘れてしまう。。
庶民側が、何度も何度も裏切られても裏切られても、さらに新しい信頼関係を「体制側」と結ぼうとしますよね。その、ある種けなげな姿というのは、いったい何なのだろう?

なぜ親や子や隣人や電車で隣に座った人間にはブチキレるのに、「体制」にはキモチワルいぐらいに従順なのか。

それが、ホントにわからないのです。


日本人全般が、「弱きをくじき、強きを助ける」「長いものには巻かれろ」の風潮なのだったら、そういう世界で育つコドモはイジメぐらいしますよね、それは。

死、あるいは宗教に近い話

  • 世界は自分を中心に。。(【重要】マーク)2

それで、昨日の続き、つまり結論ですが、
思想とか宗教に関与する、というのは、以前より書いてきた「死生観」とともにこういった「世界観」のようなものを、自分なりのモノ(オリジナル)を確立するために必要なのではないかと思っています。

オリジナルを確立できれば、ラクになれます。実際私は、ラクになれました。
新興シューキョウとは、同じ「ラクになる」でもその過程が全く異なります。新興シューキョウの場合は「ラクに、ラクになる」といった意味合いが強い。
もちろん、「カネでラクになる」というのも強いですが。。

もうひとつ、新興シューキョウとの違いというのは、まさにこの「オリジナルを確立する」ところなのでしょうね。新興シューキョウであれば完全に「教祖様」従属という没個性に陥りますから。
従属する相手が、受動的に限定されるというのは実は相当不自由なことで、ですから、そう思っている自分は一神論には懐疑的です。


自分を深く見つめている、あるいは見つめようとしている人間に対して「自分が世界の中心だと思っていやがる」と冷や水を浴びせかけようとするヒトたちは、オリジナルな世界観を形成する苦しさ、楽しさを知らない。(おそらく、これからもずっと)
そういうヒトたちとは、ハナシが合わない、と断定してよいのです。わざわざ、労を惜しまずに他人に冷や水を浴びせかけようとするヒトたちとは。

自分の世界を持っていれば、私のタワゴトなどスルーできる「大人」であるはずなのです。
あるいは、自分の世界を仮に持っていなかったとしても、日常生活に忙しければ他人にかまけている時間などないのです。それでいいのです。


それにしても、世界観「のようなもの」についてここまで(いや、たったこれだけ)考えてみることすらも、現代社会を漫然と生きてゆくには必要ない。まったりとマスコミに従属して生きることをゆるやかに選択させられるこの世の中では、オリジナルな世界観など邪魔です。そして為政者側も、個々のオリジナルの世界観を消しにかかってきます。

でも、何ごとも、ただ情報を受け入れるよりは、いちいち考えてみたほうがよいと思われます。そういう、いちいち考えるクセを持ったヒトには好感をもてます。

こうありたいまたは反面教師

  • 自己責任

個人で責任を取るという経験が。。ないの? と思わせるようなヒトが最近増殖中です。

名指しで「オマエが悪い」と言われて個人で責任を取らされるような状況の経験。
それって、必要ですよね。

最近はなんでもかんでも集団、チームなどで責任を負う風潮がありますから。。 「張本人」「戦犯」の責任の分担も薄まってしまう。「戦犯」には責任を全部押し付けてしまえばそれでいいのに。。

「自己責任」が広まってゆかないのは、単に経験不足なのかもしれません。

自分について

  • 鋼のような身体、ではなくココロ

自分は、精神的には鋼鉄のように強くなろうとしており、実際鍛えていますし、強くなっている実感があります。
それに対して「オレ(アタシ)は別に強くないし、強くなろうともしないし、強くなってどうするの?」という「『冷や水大作戦』部隊」とは、完全に接触を断ってもよいと考えています。
ハナシが合わないのですから。

願わくば、反対や批判をしていただくのではなく完全無視してほしいのですが、なぜ、カレら「『冷や水大作戦』部隊」は、冷や水という「最後っ屁」をかますことにより、ギリギリまで自分たちの優位性を保とうとするのでしょうか?

その、「余計なひとこと」への強いこだわりが、私には全く理解不能なのです。


自分は、不平不満を発しない人生を志向しており、それはもう、コドモの頃からそうでした。ですので、これからもそれは変えられませんし、不平不満を世間に対して常に申し立てていなければ生きてゆけない、というタイプのヒトたちの考え方は、ゼッタイ的にわかりません。

ただ、自分の反省点としては。。
何もかも語らなければ、結局不平不満も言わないことになるから、それでいいのではないか、という考えはありました。


自分は、リアルな社会ではとても饒舌ですが、語りません。もちろん、饒舌の中に不平不満の要素を入れないようにしていますが、それに対して「ホンネを隠してる」とか「腹黒い」とか言われたことがあります。

と、いうことは、世の中には不平不満を申し立てないで生きてゆける人間は存在しえない、と考える風潮があるということです。これはもう、末期的でしょうね。

こちらは、どちらかというと実は、「マナー」として不平不満を言わないようにしているのに、それを否定にかかるわけですね。「仲間になろうよ〜」なのか「ぶっちゃけようよ〜」なのかは、よくわかりませんが。。

何が末期的なのかというと、そのウェットな接触によってどんどん個性を埋没させてゆこうとする動きですよね。自分が没個性の底なし沼から抜けられないからって、そこから抜けようとしていたり、もともとそこに沈んでいない人間を積極的に見つけてひきずり入れようとするあたりが。


おっと、そういえば、「オマエは、不平不満はこの日記に吐き出しているだろうが!」という批判も、アリなのでしょうが。。
この「場」はまあ、「日記」ですから。。
マナーとして、リアル社会で不平不満を言わないヒトだって(ヒトこそ)日記では感情を爆発させますよね。日記はガス抜きのためにあるものでしょう? それがたまたま紙媒体から電子媒体、そしてネットワークに流れ込んでいるだけですから。。


あるときから、なぜこれほどまでに「同類になろうよ〜」的な圧力が強いのだろうか? と考えてみたときに、きわめてシンプルに、「ああ、うらやましがっているんだな」という結論に達したのです。
そういう結論に達してから、私はますます頑なになってきています。

これほどまでに没個性化しているのに、笑ってしまうのは、この10年ぐらいは、世間では「もっと自分を出そう」とか、そういう、自身の個性を打ち出そう的な動きがありますよね。
でも、ますます世の中は没個性化しています。

なぜ意見があわないのでしょうか? 「自分を出しましょう」はほぼagreeなのですが。。
なぜ「自分を出す」の中に、「不平不満をたれる」「世の中に(プチ)文句を言う」が含まれてくるのか、そこがよくわからない。。

あるいはそんなヤワなハナシではなくて、ここ10年ぐらいの「もっと自分を出そう」という動きはそのままイコールで「もっと不平不満をたれよう!」だったのではないか、と思います。

という意味では、確かに、世の中にはぶちぶちと、体制側に届かない程度に不平不満をたれている人間は増えました。が、しつこいようですが没個性化は現在進行形で進んでいます。

  • 黙するということ

つづき。。
宮台真司氏の本にもあったのですが、この方もどうやらフィールド・ワークを是とする人種のようで。。
僭越ながら、私と同じ口ぐせ「ならやれば」を多用しているみたいです。

例えば宮台氏の視線であれば「論壇」「文壇」と呼ばれる「場」に対して、(私自身は、そういう「場」があることすら認識できませんが。。)そういう場が発する「教育とはこうあるべきだ」「今の若い世代は〜」「○○に猛省を促す」といった発言、言説、つまり自分たちの手は汚さずに、「手を汚す人種は他にいる」と考えているような物言いですね、そういう物言いに「ならオマエらがやれよ」と、言う。(言える)


おおよそ自分の考え方も同じで、もちろん私にも、世の中は周囲にモノ申したいことはたくさんあるけれども、「オマエがやれるのか?」をいつも自問自答していて、「やれない」のであれば潔く「黙する」ことを選択していました。

それは、おそらく正しい行動であり、ある時期の自分の、世の中と対峙する方法論としてはゼッタイ的に正しかったのですが、果たして「その次の自分」は、黙したままでいいのか? という疑問が出てきました。それは、今でも考え中です。


それが、この日記の変遷(ただ自分のドロっとした内面を吐き出すだけではなく、明らかにそこにメッセージ性―他者を意識し、他者にはたらきかけるような―を入れ込む)につながっているのでしょう。


最近強く思いますのは、自分の「やれるのか?」の範囲というのは、相当限られるのだな、ということです。その範囲があまりに狭いがために、「オマエがやれるのか?」の問いに対してあまりにも「No」が多かった。つまり、黙してしまうケースが非常に多かったのです。
それが相当なストレスになっていました。


自分は、世論なり大衆、庶民なりあるいは「世界」なりを動かせるのではないか、というワカゲのイタリの淡い幻想は、もういいかげん持ってはいません。ですから、「やれる」とはホントに自分のやれる範囲で「やる」あるいは立ち振る舞う、あるいは「踊る」ということに決めたのです。

my格言

  • まっとうに生きるとは、幻想を持たないこと(20070928)

再録・継続

  • 「後半戦の展望」(20070414)

人生、後半戦で何を頑張るか、って、「努力」方面だと思うんですよね。

人生の前半戦でもっともなおざりにしてきたもの。「若さ」という強力な武器を持つ時期に、「努力」をなおざりにしてきたことによりもはや取り返しのつかない損失をしてきているわけです。(と、今になればわかります)

だから、努力しないことが自分の所与の性格だとは思わずに。。 今からでも遅くはないので矯正してゆきましょう、と、いうことです。それにより、前半戦で実現できなかったことが後半戦で花開くかもしれません。

いや、思い出しましたが自分は「大器晩成」を公言しているのだから、もうホントにやるしかない。花開く「かもしれない」などという悠長なことはいってられないのです。危機感を持ちましょう。。

(再録おわり)