夏休み! 新興宗教の話
本来の日記部分
自分は、仕事と仕事の谷間で、1ヶ月ぐらいこちらが望んでいないのに休むことがありますが、次の仕事が決まらない、という状態ですと、全く休暇にはなりません。
収入が保証されている状態での長期休暇というのは本当に楽しいですし、待ち焦がれていました。
図書館でだいぶ本も借りましたし、この休暇は籠って、思う存分思想に耽ります。
昨日も書きましたが、今がホント、大事な時期だと思っているのです。
再録・継続
- クリエイティビティについてふたたび(20070304)
重要なのは
「真似をしたからといっても自分の個性がなくなるわけではないといいます。例え真似をしたとしても自然とその人その人の個性はにじみ出てくるものなのだそうです」
という、よく考えてみればあたりまえのことです。
個性重視だと、自分が何か他人とは違う特別な存在であるとカンチガイすることが多々あります。真似の中の個性であれば、まず、自分は真似をしているのだという前提があるために無用なカンチガイが発生しません。
真の独自性を発揮できる人材、特別な存在というのはきわめて限られているのです。
皆が「自分は人とちょっと違う」と考え、ひしめきあっている世の中より、皆が謙虚に考えている世の中のほうが良いが決まっています。どちらも、結果としての行動は同じなのですから。結局はどう妄想を肥大させようとも身の丈にあった生活しかできないのです。
自分が、クリエイティビティ(特に、いわゆる「アート系」の)がないという自覚はあるのです。そのへんが、いつまでも「しがみついている」人たちと比べて潔いだろう、と自画自賛しているのですが。。
自分は生み出す側ではなくて完全に吸収させてもらう側というか、生み出された素晴らしいものを鑑賞する、あるいは身につける(服とか)、間接的には、「何が生み出されているか」をチェックするとか、そういう方面には長けていたいと思いますし、けっこう長けている自信があるんですよ。
そういうモノを「オリジナリティ」に内包するかどうか、という話。
創造性豊かな人は果たして独自性もセットで豊かなのか? 「創造性豊かな人」が創造するモノ、コトというのはこの現代社会においてホントウに独自なのか? もうすべては二番煎じではないのか? という疑問が、常にあるのです。
それだけでなくて、今の時代は、「創造性豊か」に見せることに長けているだけ、という話もありますからね。イメージ戦略で。
(再録おわり)
死、あるいは宗教に近い話
- ナンマンダブ
自分が長期入院しているとき、タバコ部屋でマンガを読んでいると(当時は喫煙していました)、なんか一心不乱に数珠持って祈っているオバチャンがいたのです。
たま〜にみかけました。でも、どうみても患者じゃないし、見舞いにきているようにも見えない。
はっきりいって、アヤしいヒトでした。格好からして。。
皆がタバコ吸ってるのにそのオバチャンはなぜかお香をたいており。。
入院も後半になった頃、そのオバチャンの正体を知りました。そのヒトは、よくわからない宗教の勧誘にきていたのですね。
それを知ったときは激烈に頭にきましたね。
なぜかというと、ヒトが、弱っているところをつけこもうとしているからです。
患者本人だけでなくて、患者の容態を憂いている親類、見舞い客に対して。。
祈ってりゃなおんのかよ、フザケんな、って感じですね。
でも、祈りたくもなる。それはよくわかる。
わかるからこそ、そこに付け入ろうとする姿勢がますます腹立たしい。
あれは、決して「善意」なんかじゃない。ヤツらが「善意」だと考えているのだとしても。
しばらく忘れていましたが、自分がああいったアヤしげな宗教に対して決定的な不信感を抱いた出来事でした。
- オウム真理教の話
10何年前、オウム真理教の崩壊を目の当たりにして、その後しばらくして考えたのは。。
「しばらく」というのは、その直後は、世の中の趨勢に対してとても鈍感だったので、地震が起ろうが霞ヶ関でサリンが撒かれようが、何も意見を持っていなかったためです。
自分の「暗黒時代」であり。。 「何も考えていなかった」ともいえます。(生きるのに必死だった、とも)
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- 「常に自分にツッコミをいれてないとダメなんだな」
ということ。
自分を客観視する「目」を持っていれば、あんなハズカしい格好はしないだろう、と。
それと
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- 「自分から洗脳されに行っちゃダメなんだな」
ということ。
そういうところにふらふらっと行ってしまうと、もとより洗脳されに行ってるわけですから、バッチリ、しかも強力に、ヤラれてしまいます。
と、いうあたりから端を発して、自分の中に植えつけられた「考え」みたいなものがあって、それは、カンタンにいってしまえば、
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- 「すべてのことは自分で見つけよう」
と
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- 「すべてのことは自分で判断しよう」
ということです。
「見つけよう」というのは、前にも書いたように思いますが、とにかく、先達たちはすべて考え済だというのはわかっているのです。私が辿っている「過程」というものは。
ですから、私が思想的に喘いでいるのを見て、一発で「それは〜でしょ」とか「〜を読めばいい」とか言いたくてうずうずしているヒトはいるらしい。
でも、ミチクサミチクサを続けて、いろいろな角にアタマをぶつけながら、自分で自分の思想は固めていきたいと思っているわけです。
(この「思想」というコトバはしっくりこないですね。。「哲学」なのでしょうか?)
もちろん、本などの助けは必要なのですが、自分に必要な本は自分で見つけましょう、ということです。自分で求めたものであれば、乾いたスポンジのように自分の中に吸収されていきますから。。
その本なり活字が、自分の思想的に「深いところ」まで入ってゆけば、それをアウトプットするときには単なる受け売りではなくなります。
「自分で判断しよう」のほうは、その判断基準というのが。。洗脳されてしまったらもう、ダメなんでしょうね。判断をゆだねているのと同じになってしまいます。
だから、「自分で判断しよう」というのは、いろいろな外的要因により「洗脳」されないよう、自己を確立しつづけるというのが大前提。
ところで、自ら洗脳されに行くのが、高学歴が多い、という話は、当時、盛んに議論されていました。
そのムカシは、大学生は学生運動により体制への反抗に走り。。
その、オウム真理教が流行った頃は、現世からの逃避と、偽悟りにより「上から見下すための」宗教にハマり。。
で、今はなんなんでしょうね。
体制反抗もカルト化もしていないのに、状況はもっと悪くなっているような気が。。
高学歴が高学歴じゃなくなっている、ということでしょうね。高学歴すらも捨てた、というか。
だって最近の一部を除く大学生あるいは新卒は、ホント、アタマのワルそうなしゃべり方をしますよ。
あれは、インテリをはなから捨てていますよね。
ですから、反抗も逃避すらもできないという。。
- そして、ふたたび新興宗教の話
新興宗教という存在の何が腹が立つかといえば、家族、親類を引っ張り込む。
家族、親類から、法に触れない範囲で用意周到にカネを巻き上げる。
引っ張りこまれることを拒否する親類をはなっから見下す。
信仰を理由に自分の仕事をしなくなる。主婦だったら、主婦のくせに家事をしなくなる。
夫の稼ぎをすべて信仰につぎ込む。カネに関しては、どんどんノルマを課せられる。
家計が火の車になっても、「信心が足りないからだ」ですべて済ます。。
自分だけが貪欲に「幸福」になろうとし、他人や家族、親類にも「幸福になれるよ」と巻き込んだ結果として、自分以外を不幸のどん底に突き落とす。
その一連の行為を「なにさま?」だと思いませんか? と、いうことです。
で、その新興宗教とやらにハマるきっかけは何かというと。。
親類縁者あるいは近所付き合いの「サークル」の中で、なぜか常に「自分がいちばん不幸だ」と思っているわけです。そういうヒトが狙われ、ハマってゆきます。
「幸福度」という観点で、その「サークル」の中で一発逆転を狙うわけです。「信じるものは救われる」と。。
その時点で「自助努力」という考え方は、頭の中から消え失せていきます。
「幸福」になろう、と周辺を巻き込んでいくというのは実は真っ赤なウソで、自分の今まで感じていた「不幸感」を皆で共有しましょう、と引っ張り込んでいるのかもしれませんね。
「サークル」の中で一人がハマると、それが「暴風雨」となって、他人のささやかな幸福と、「おカネ」を根こそぎ持っていこうとするわけですから。
そして、自分が仏教というものに興味を持つきっかけとなっているのは、そういった周辺から着々と忍び寄るカルト、「スピリチュアル」の類、あるいはねずみ講、振り込め詐欺、などなどのウマい話、そして、世の中の「暴力的なものすべて」に対して、理論武装をしなければならない、という非常に強い切迫感があるからだと思いますね。
人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師
- さわらぬ神にたたりなし
新興宗教に対して、批判して、立ち向かう必要は、全くないのです。個人が。
宗教法人を正面切って批判するのは、それ相応の「一大勢力」に任せればよいだけの話で。
個人で、インディペンデントで活動している(あるいは、したいと考えている)ヒトたちは、自分が「無力」であることを、極端なぐらい、臆病なほど意識しなければならないのです。
それは、自分は基本、個人で生きてきているので、これまでの人生で身に染みて感じてきたことです。
個人で「イキガる」のは、今、そして近未来のこの国においては、自殺行為ですよ。一億総「寄らば大樹の陰」状態になってきているのにもかかわらず。
そして、個人で生きてゆく、という選択は、決してカッコいいことではないのです。自分は「仕方なく」です。こういう形態でないと食っていけない。いや、食わせていけないのです。
つまり、個人で生きてゆくということは、細々と生きてゆくということです。「細々」ということは、なるべく世間に対してインパクトを与えないようにする、という意味です。
そしてそれがイヤなら、最初から組織を作り上げるという前提に個人で動くことですね。独立、というのは、そのままインディペンデントで生きる道もありますし、ゆくゆくは組織をつくり、ヒトを従えて、ひとつの「勢力」になる、という意図がある場合もあります。昨今の独立は、前者が主流にようにみえて実は後者のほうが多いような気がしますね。
自分が若いころはよく「組織の歯車」というコトバが使われました。組織の歯車はイヤだけど、自分がトップになって「組織の歯車」を動かしたい、という欲望はいかんともしがたいのです。
「組織の歯車」にある一定期間どっぷり浸かっていたヒトほど、そうなりがちです。
あるいは「子会社化」といいますか「半独立」というか。。
会社を辞めて独立する、というときは、あらかじめ、その会社、あるいはそのときの得意先から仕事をまわしてもらう、というネゴをしておいて独立する、というケースをみてきましたけど。。
個人的には全面賛成はしかねます。将来的に、その、自分が依存する会社とは完全に縁を切るビジョンを描いていないと、独立しても進歩がないような気がするんですよね。
最初はそういうビジョンを描いていても、いつの間にかぬるま湯に浸かり、以前所属していた会社の飼い犬のようになってしまい。。やがて捨てられ。。 なんてヒトもいました。
とにかく、「細々」がキーワードだと思っています。
- 「広い」か「深い」か
話が「広い」(「世界を股にかける」的な)あるいは「デカい」(特に、金銭的に)、そういった方面を求めているヒトとは、最近、まともな議論にはなりません。
なにせこちらは、カネをかけず、遠出せず、日常を「細々と」暮らすのを理想にしていますので。。
ですが、たとえ行動範囲が狭くとも、話の「深み」であれば負けないかもしれません。
少なくとも、海外にわざわざ行って「地球の歩き方」をなぞって帰ってくるようなヒトよりは。。
以前も書きましたが、世界を旅行しなくとも、東京の路地裏に無限の広がりを感じることができるかもしれないのです。
そもそもこうやって日記に書き出せるだけ書き出して、アタマをクリアにしてゆきながら思想的に深みにいこう、というのが今、いちばん楽しいわけですから。。
「広さ」「デカさ」を志向するヒトたちと話があわないのはあたりまえなのですね。