東京ミッドタウン 時間の天引き(2)
再録・継続
- 東京ミッドタウンのキャッチ(20070202)
港区のメールマガジン
★港区観光情報メールマガジン『WELCOME港区』【 vol.133 】
「様々な施設が集まる「東京ミッドタウン」の中でも、デザイン・アートは欠かせない要素のひとつ。生産型社会だった日本が創造型社会への道を歩む今、日本発のデザイン・アートは世界に誇る財産になると考えた「東京ミッドタウン」は、開発プロジェクトの段階から多くのデザイン・アート関連施設を街に組み入れました。」
なんだか、アホか、と思ってしまいました。。
「創造型社会への道を歩む」にふさわしい人材が、ハタしてこの東京にそろってきているのでしょうか。偽「横文字職業」予備軍が跋扈してるだけではないですか。
それでも、ハコだけは、進化してるということですか。。
日本人は退化してるのに。。
仮に1万歩譲って、日本人のなんとかリテラシー、つまり、「ゲイジツ」に対する目が肥えてきているのだとしても、それがナンなの、という気がします。その代償として日本人特有の繊細さ、細やかさとか生来の「躾け」のようなものを捨ててきているわけでしょう。
「日本発のデザイン・アートは世界に誇る財産になると考えた」
。。なりませんって。。 欧米追随型では。
この日本(東京)で、ゲイジツは本当に生活を豊かにしますか? 生活を困窮に追い込むだけではないですか? 誰もマジメに考えていないのだろうか。。
ゲイジツよりもまず「日常」を豊かにすることでしょう。日常にゲイジツを取り入れる、という考え方であれば良いのかもしれませんね。
このキャッチは自分の違和感アンテナをがんがん叩きましたね。ある意味東京ミッドタウン恐るべし。。早く見てみたいです。
(再録おわり)
実際、ミッドタウンはオープンし、自分も何度か足を運んでいます。
ヒネくれた見方をやめて、ミッドタウンを俯瞰してみれば、「アート」はそれほど主張してきません。
さりげなく存在しています。
これは、僭越ながら言わせていただくと、見直しましたね。
でも、2月の時点で書き出したときの「思い」はそのままですね。
ハコだけは洗練されてゆくが、利用するヒトがまったく洗練されてゆかない。
「創造型社会への道を歩む」とマスコミがアオってみたところで。。
「創造型」人間のイメージも、「絵が描ける」ぐらいの短絡的なところから一歩も抜け出ていないのでしょう。
創造型人間にシフトしてゆくためには、生活習慣というベースがきちっとしていなければならないということに気付かない。。 あるいは気付こうとしない。
「生産型社会」が成熟するに至る過程で、ニッポンは、大事なモノ(「大事にしなければならないモノ」)をほとんどドブに捨ててきたわけです。「創造型社会への道を歩む」は大筋agreeなのですが、創造型社会へのシフトは、その、一旦ドブに捨てたものを、「ドブに捨ててしまってゴメンナサイ」と謝って、ドブに飛び込んで拾い上げて、キタナい身体をすべて清めてからでないと仕切り直しできないのですよ。
次のステージに進むまでにあと何十年かかるかわからない。その間にまた戦争でも起こって、強制リセットされて、元の木阿弥になってしまうかもしれない。
という意味でも、残された時間は少ないと思うんですけどねぇ。。
人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師
- 「仕事」というものが「時間の天引き」にあたるのか
昨日(? でしたよね)の「時間の天引き」の話の続きですが。。
実稼動時間の中で、マスコミが忍び寄ってきて時間を天引きしてゆく動きには警戒しなければならない、というのは書いたとおりですが、実稼動時間の中の「仕事」はどう考えるべきか、というあたりで。
「仕事」がオトナ庶民の「稼動時間」から天引きされる代償として、実生活が営めるわけですよね。「おカネ」が手にはいるから。
ところで、最近の自分の考え方としては、人間の「実稼動時間」は、休息時間をのぞき、ほぼ「義務の遂行」に充当しなければならない、と考えています。
不思議なことにヒトは、自己満足、自己実現のための「アソビ」に実稼動時間を費やしても全く満足感が持続しません。
ですから、その「アソビ」は、「義務の遂行」を円滑に行うための「休憩時間」にコンパクトに押しやればよいのです。つまり、人生において「アソビ」を目的化しないということ。(【重要】マーク)
苦痛にならず、自分が向いている「義務」を自ら選択し、自他ともにそれがその人の「義務」であると認めさせて、あとはそれの遂行にまい進する、と。それが軌道に乗り始めたところで始めてドライブがかかったように人生に「満足感」がふりかかってきます。
その、自分にふさわしい「義務」を自ら選択するのが、ムズカしい。。
特にこの無宗教を気取ったニッポンでは、自らの意志で選択しなければならないですからね。
そして、義務の選択の過程を放棄してしまうと、良き人生にはなりません。それはいつかの日記に書いたような。。
ここの「気付き」も大事なのですが。「楽しい」と「楽」とは違うのだ、という再認識ですね。
さて、その「義務」と「仕事」との関係なのですが、
これが一致するヒトは幸せなのでしょう。その場合「仕事」は「天職」というコトバにおきかえてもよいのでしょう。
天職により、生活を営むためのおカネと、休息時間を充実したものにするためのおカネを得ることができれば、何ら問題はありません。
ただ、それを実現しているヒトは滅多にいないわけで。。
「自分は天職を得ている」という自覚があったとしても、それにより前者(生活を営むためのおカネ)すらままならないという状態。
ゼッタイにカンチガイしてはならないのは、天職を得ているヒトは、前者にプラスして後者(休息時間を充実したものにするためのおカネ)もゼッタイにセットでなければならないのです。
休息時間を充実したものにできなければ、せっかくゲットした天職を維持することができないのです。
「天職を得ているのだから、おカネのことなんかいーじゃないか」などという外野の声は、無視です。天職は、得たら、離さないようにしなければなりません。
天職を得、かつ、金銭的にも充足した生活を送るには(送れていないヒトは)どうしたらいいんでしょうね。。
はっきりいって、わかりません。そういう方は、高いレベルで葛藤しているのだと思います。
「庶民」にチクチク攻撃されながら。。 「食べるのに不自由せず、仕事も充実しているのに何が不満か」みたいなことを言い出す「庶民」は必ずいますから。
それを無視して、「庶民」に引きずり下ろされることなく高いレベルで葛藤を続ければ、きっと答えは見えてくるのだと思います。
どんどん脱線してゆくな。。
世の中の大部分のヒトは、遂行すべき「義務」と、世間的にいう「仕事」(おカネを得るための手段)は分けざるを得ないと思いますし、それはそれで間違っていません。
自分の仕事を「天職である」と考えることができるヒトは滅多にいません。
ですが、たとえば「仕事」に忙殺されている状況のヒトは、今やっていることはおカネを得るための手段であるという醒めた見方はいつもしておいたほうがよいと思います。
そして、それにより得たおカネがすべて「自己実現」とかマスコミ洗脳による「消費」にすべて向かってしまうのは少し悲しすぎるのではないか? という気付きが必要です。
そういう方は、早めに「義務の遂行」という生活における「柱」をびしっとしないと、満足感から見放されていってしまいます。
そして何度も書くように、その「義務」というのは自分で選択できるのです。それが許容される世の中になってきたということです。
なんか宗教がかった話にいってしまいそうですが。。 そういうケは私には全くありません。
そもそもこれを布教しようとかお布施をもらおうとか全く思いませんし、その時点で「シンコウ宗教」ではないですしね。
おそらく、続きます。。