元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

生活の中の表現素材

5年前の文章。この、Facebook、twitter全盛時代にこの文章はどう響くか。
生活の中の表現素材

たとえばエッセイ、随筆を書こうというときに必要なのは、「技術」と素材ですね。

まるで中華料理のような。。 上質の素材であればさっと味付けしてさっと炒めるだけでよい。

その「素材」を集めるのにはおそらくふたつのアプローチがあって。。

常にオモシロオカシク、文章にしてもオモシロいような生活を実践しようと心がけるか、あるいは、生活そのものではなくて「感受性」のほうを 重視するか。

前者はなかなかムズカしいものがありますよね。だから、ムリヤリオモシロオカシい生活をでっち上げようとしてしまう、というか。。

とある刹那的なイベントがたまにあったとしたら、異常なほどにそれをピックアップして、あたかも生活全体が楽しいかのように錯覚させるよう なゴマカしをするとか。。

他人に対して、自分は「けっこう」面白い生活を送っているのだ、と主張したいときに使う、現代人に必須の手法ですよね。

そもそも日常に不満足感を持っているヒトたちがそういう、エッセイの素材に耐えうる生活を送れるわけはないのです。


後者もなかなかクセモノであり。。

なぜなら、「感受性が鋭い生活」を意識的にやるということ自体がウソくさいですから。

ムカシ、ひととき存在した「不思議ちゃん」と呼ばれたヒトたちが、そうでしたね。

今でいえば「天然」とよばれる人たちが「不思議ちゃん」の意志を継承しているのかもしれません。

毎日がオモシロオカシく過ごせる人間がめったにいないのと同様に、真に感受性が鋭い人間もほとんどいません。

毎日がオモシロオカシい生活を送っているかのように見せかけるヒトがたくさんいるように、「ワタシ、感受性が鋭いヒトだから」と宣言してそ う見せかけているヒトもたくさんいます。


話がだいぶそれましたが、結局、生活の中に良質な「素材」を見つけられるかどうかは、そのヒトの生活全体の質そのものが問われるわけですか ら、付け焼刃ではどうにもならない。

生活全体の質を上げたいのだったら生活を豊かにするしかなく、そのための手法はこの日記でも断片的に書いていることです。カンタンにいえ ば、この高度資本主義社会において生活を豊かにするキーワードは「努力」と「継続」に尽きます。

そうではなくて、ほとんどのヒトたちは「努力」と「継続」をはなっからやろうとしないわけですから、そういうヒトたちは「技術」を磨けばい いのです。

技術という逃げ場は、あるのです。