「人生そのものが遊びである」とは
人生観、のような、思想の話
- 「人生そのものが遊びである」とは
「人生そのものが遊びである」とは、どういうことか?
それは別に、人生が「だらっと」しているということではありません。
言い方を変えれば、「遊びが組み込まれている人生」ともいえると思います。(この是非については別途考えなければなりませんが)
僕について考えてみると、僕の人生(というコトバが大げさであれば「生活」)において弛緩している状態というのはほとんどないようです。というよりも、弛緩状態を許容しているのを寝る前だけに限定している、といったほうがよいかもしれません。
外面的に遊んでいるような状況でも、常に弛緩せず、なんとか物事をてきぱきと片付けようと考えています。
たとえば居酒屋でホロ酔いの状態であっても、常に片付いていない皿やビール瓶が気になったりとか。誰かがつまんなそうにしていたらフォローしなきゃ、とか考えたり。(幹事でもないのに)
レジャーに行ったとしても段取りを考えます。なぜかというと、そういう集団のときに皆が皆「レジャーだ!」と弛緩してしまったら収集がつかなくなるのです。そして、それがいさかいを引き起こし、せっかくのレジャーが後味の悪いものになります。それが予見できてしまうのです。
後味が悪くなるぐらいなら自分が率先して犠牲になろうかな、と。。
友人知人は僕の性格を知っているので、僕に暗にだらっとしないことを要求しますし、僕はそれにカンペキに応えようとする。
それ自体は苦痛ではありません。僕の性にあっているので。
ですが、他人と接触するレジャー、イベントにおいて僕が休息をとれることはあり得ません。
だからそもそも、休日にまで他人と接触にいったりすることはあまりありません。苦痛ではないのですが、疲れるのです。
僕が日常において弛緩した状態にならないのは、単なるクセなのかもしれません。だから、「たまにはダラっとしたら?」という意見をもらうこともありますが、クセなのですから余計なお世話ということです。
休息がとれないというのも自業自得ではあります。ですが、他人と接触していると休息がとれないのですから他人と一緒にいなければよいだけのハナシです。
他人と接触しているときに休息できるようにできればいいのでは、というアドバイスも、完全に余計なお世話なのです。他人と接触する時間を極力減らして、僕は僕なりに休息時間を確保しています。自己防衛というヤツですね。
僕にとって、ビジネスであろうがプライベートであろうが他人と接触するということは「社交」であって、常に真の意味での遊びではありません。
そして実は、家族と接しているときも同様です。僕は「親しき仲にも礼儀あり」を重んじていますので、家でもあまり無礼講にならないようにしています。
家族といるから安らぐ、ということはありません。
それは、不幸でしょうか? でも、僕はこの状態で満足しているのです。
というわけで、僕は「社交」のとき(人生におけるほとんどの他人との交流)にはてきぱきと気を緩めずに生きていこうと思っていますし、他の人生においては自身のTodoリストをしゅくしゅくと消化してゆくことをライフワークとしていこうとほぼココロに決めています。そしてそれなりに生きがいみたいなものは感じるようになってきています。
「社交」というのは、他人はそれを僕のアソビと認識する。
ということは、最初の話に戻すと、だらっとしているのがアソビとは限らないということです。精一杯気を緩めずに行うアクティビティがアソビになりうる。いえ、実は逆で、だらっとしている状態はアソビですらないのかもしれません。