元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

第六感の威力 「ミチクサ」 物理的負荷の無視2 横文字職業

本来の日記部分

小銭入れを落としてしまい、極限までブルーになりました。今は復調しましたが。。 もちろん、交番には届けました。
金額の問題ではないのです。なぜこうも厄災がふりかかるかなあ、と。。 「自分ばっかり」という考えに陥りますし、また、「自分ばかり」と考えている自分がとてもイヤになります。つまり、自己嫌悪を誘発します。

小銭入れにカード類もいくつか入れておいたので、その紛失の手続きもいちいち面倒くさいですし。。


でも、何か予感はあったのです。それははっきりと思い出せます。自転車に乗って買い物に行ったのですが、買い物が終わり、小銭入れをズボンのポケットに入れて、自転車にまたがったときに、何かをはっきり感じました。「このズボンのポケット、底が浅くないか? このまま自転車こいでたら落とすんじゃないか?」みたいな。。
今は後付で言語化していますが、そのときはコトバを伴わない、単なる「感じ」でした。不安感のような。。


行くときは何も感じなかったのです。ホントにポケットの底が浅いのであれば、行くときからすでに不安を感じるはずなのです。あのとき、自分の第六感は確実に、自分が小銭入れを落とすという予見をしていたのです。(と、書いてはみましたが、ホントかな。。)


でも、その「感じ」はあったのですが、それに対する対策をとっていません。つまり、脳が、「だから、小銭入れをポッケにいれるのはやめなさい」という命令を出すまでは至っていないのです。

この予感めいたものをコントロールできるようになれば、と思いますね。


そして今日、もうひとつ、似たようなことがあったのです。そう考えるとmy歴史的な日なのかもしれないけど。。

行ったことのない店に行こうとしていたのです。場所は、おおよそ地図で確かめたのであとは何とかなるだろう、と。。ところが実際は、何とかならなかった。その店は、見つけられませんでした。
ここまでは、実はよくあることです。


でも今日は、駅を出てその店の方向に向かっているとき、途中で道端に地図板がありました。そのときに、小銭入れのときと似たような「感じ」(不安感? 警告?)があったのを、はっきりとおぼえています。「ここの地図で場所を確認しておけ! 迷うぞ!」みたいな。。(これも後付で言語化しています)

で、この「感じ」も結果的には無視しました。強く「無視」したわけではないのですが、その「感じ」を重要視しなかったというか。。さきほど書いたように、脳はそこから「だから、あの地図をみなさい」という命令を下さない。

でも、その地図をみたところで、その店は結局見つけられなかったかもしれない。
だから、自分の視界が地図をとらえたときに、「行きたい店は見つけられないぞ」という確信を、示唆したのだとは思うのですが。。 それを受けて、「じゃあやめよっか」と引き返すわけにもいかない。


とにかく、そのような「感じ」を受けたときに、まずそっちを優先して立ち止まるほうが大事ですね。
それを実行しましょう、早速今日から。。

  • 体調

なんだか、お腹が出てきたような気がしてなりませんが。。
脂っこいものを食べ続けるとお腹にくるような歳になったのでしょうか。今まではそんなことはなかったのですが。。

  • 仕事

今週も「サイドビジネス」が不調で、それで憂鬱なときに小銭入れを落としたわけで、ふんだりけったりでした。

活動・活動に関して(散歩、都市論etc)

  • 「ミチクサ」

今度から自分の「活動」は「ミチクサ」と表現することにします。
「ミチクサ」。。自分の「活動」をひとことで表すのにピッタリの言葉です。
今まで気付かなかったのが不思議。

抜粋・紹介

仏教が好き!

仏教が好き!

中沢新一さんが、「この経済社会自体が悪い夢かもしれない」といったような考えを対談で話していましたが、それはしみじみと納得できます。この、私が生きている「異常な社会」は、確かに「夢」なのかもしれないと、ホンキで思います。

西新宿で高層ビルを見上げたり、六本木ヒルズや東京タワーの展望台から東京を見渡したりしているときに、そういう思いを強くします。ヒトが、どんどん高い建物を建ててゆく、「ことができる」のが「夢の実現」の象徴であり、この高い建物が未来にこの地球にもたらすかもしれない厄災の予見が「悪夢」なのかもしれません。

これだけ都心に集中して建物が建っていると、地面に向かって「重くないのか? 地球」と尋ねたくなりますね。いや、重いのは間違いないでしょうね。


ですが、たとえこの世が夢だったり悪夢だったりしたところで、それが逃避の理由にはならないのです。
この世の中自体が「終わらない夢」であると考えてもいいですし。終わらないのだから、自分独りの力でどうなるわけでもない。なにせ、夢であってもさめないのです。死ぬまでこの夢は続くのです。たまにホントの夢(寝るときに見る)に逃避するのはかまわないのかもしれません。

さめないし、終わらないのですから、この現世を「夢」と定義しようが「現実」と定義しようが、あまり意味はありません。「現実」という概念が確固たるものではない、という考えは自然ですが、確固たるものでないからといって一夜明けたら楽園に変わるわけでもない。
ヒトは、今、ここでしか生きられないのだという「事実」は、常に認識しておくべきでしょう。