元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

気付いてしまいたい、ということ 代官山

トピック

「付き合い」の新年会。明日も続きます。

  • 体調

風邪は復調したと思っていましたが、人込みにまぎれて仕事をしていたら鼻づまりが。。

  • 靴下

冬は、靴下を2枚重ねにするか、あるいは厚手の靴下を選んで過ごすか。。
とにかく、歳を取ると足先が冷えてくるようです。。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

「マスコミによる洗脳完了している人たちにコミットするのはとにかく馬鹿らしい」について、昨日あれほど筆が乗ったのですが。。 今日は特になし。もう終わりでしょうか。

  • 気付いてしまいたい、ということ

マスコミからの不要な情報のシャワーを避けていると、おぼろげに見えてくるものがあります。その断片はこの日記にちりばめられていると思うのですが、気付いてくる(「浮き上がってくる」といいますか)のはもっと巨大な、「何か」です。

自分が「気付き始めている」ことは自覚しているのですが「何を」がまだはっきりしません。これは相当「【重要】マーク」です。
単に情報社会から隔離されるだけではダメなのではないかと思います。隔離され、ノイズがなき状態で考え続けなければ。。

イメージとしてひとつ、言えるのは、「正しいことが隠蔽されているというのは、本当なのだなあ」ということです。
なぜ正しいことが隠蔽されなければいけないのか。それが「この世の闇」ということでしょうか。


ところで、マスコミが跋扈していない頃の庶民は、皆が皆「気付き」があったのでしょうか。。
それはないでしょうね。前提として、「情報の洪水」という洗礼を浴びていないからです。情報の洪水を浴びて、そこから逃れたときに見えてくるもの。。

しかし、その頃の庶民が、我々より完全に優れていたのは、「身のほどをわきまえていた」ということです。それが、「大人」というものです。
今の時代は私含め、いつになっても身のほどをわきまえることが難しい社会になってきています。昔は10代であっても、ある種の諦観のもとに身のほどをわきまえ、大人になっていったのではないでしょうか。

この話は続けられるかもしれません。