元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

死と宗教観3 ヤマアラシのジレンマ 学歴コンプレックス(再録)

再録・継続

だいぶムカシの。。まだ自分の「オピニオン」が固まっておらず、「アオい」時期の文章。

  • 学歴コンプレックス(2) (20061126)

世間的に一流と呼ばれる大学であっても、人材は玉石混交である、という話の続きから。。

背伸びして大学に入ってほしくない、ということですね。それが、「受験戦争」のもっとも大きな弊害になっていると思います。

猫も杓子も大学に入る、のは、ビジネスですのでかまいません。裾野が広がるのはけっこうですが、一流と呼ばれる大学は、常に狭い門戸であってほしいのです。

ところが、たとえば浪人などして、受験テクニックだけ磨くと、自分の本来の能力を超えた一流どころに入学できてしまう。入ってしまえばこっちのものです。卒業するのはたやすいですし。。

受験テクニックに長けた人間がほとんどを占めてしまい、能力のある人材が押し出されてしまいます。


大学の偏差値とは、本来持っている能力の並びであってほしいのです。「努力量」で決めないでほしい、と言い換えてもよいかもしれません。

良くも悪くも、一流どころを卒業した人たちが、日本の中枢にまで到達するわけです。ということは、戦後の日本が徐々に悪くなっているのだとしたら、中枢の人材不足であるといえます。その根本要因は「受験戦争」にあります。

能力のない、とまではいいませんが、平凡で、努力量とトレンド吸収(「受験テクニック」)だけが取りえの人たちが中枢を占めてしまい、本当に能力のある人たちが下野して中枢を目指さなくなってしまったら、日本の「仕組み」は確かにおかしくなってゆくでしょう。

日本の舵を取るのは「選ばれた人」であってほしいのです。


学生時代に「笑っちゃうぐらい」頭が良くて、「勉強しなくとも100点」な方々は、コミュニケーション能力があるのであれば政治家に、なければ学者に、そして手先の器用な方は医者になってほしいです。そうすれば日本は変わってゆくでしょう。

そして、秀才くんは官僚になってほしいです。


日本の選抜制度はもう先が見えています。サッカーのトレセン制度を参考にして、小学校高学年ぐらいから全国に散らばる逸材をスカウトしてレベルの高い人材のみで合宿を組み、いわゆる「帝王学」を学ばせてほしいものです。そこから、将来的に日本の中枢へ行く「パス」をつくってあげればよいのです。

特定の学校にいるからそこから選抜する、という手法ではなく。。 「環境をつくるから集まりなさい」ではなくて、本当に日本を憂いているのであれば、全国行脚でスカウトしてまわるべきです。

スポーツや芸能の世界ではこういう仕組みが進化しているのに、なぜ「勉強」の世界は、これほど「競技人口」が多いのにも関わらず未だに行政側、教育側が高飛車なのでしょうか。

学校側も、レベルの低い人材が入試をすり抜けて入ってきてしまう状況に辟易しているはずです。本当に能力のある人材を欲しているはずです。であれば、待つだけではダメでしょう、と。

中枢といえば。。日本の政治家の質は玉石混交どころか最悪に近い状況になっていますね。。 あれを見るだけで末期的であると感じます。自分は政治劇にはうといので、これは、余談になりますが。。
(再録おわり)

自分について

斎藤一人さんのメルマガの問答で「本当にスゴいヒトとは?」「一生懸命働いて子を育て、人が嫌がることをしないヒト」とありました。

いやはや、そのとおりだと思うのです。私はそういうヒトを目指しているのだなあ、としみじみ感じ入りました。
自分はずーーーっと、「人が嫌がること」をしない人生を送ってきました。良くも悪くも。。あるときは自分を滅し、自己主張をせずに。
でもそれは、もう慣れていますので、ここから変わりようもありません。それが正しいと思ってきました。

ただ、客観的評価をコントロールすることはできない。私は「人が嫌がること」はしていないつもりでも、相手はどう判断するかかわからない。
たとえば、私が、あるヒトの近い将来のことまで考えて、そのときはちょっと攻撃的な助言をしたとしても、そのヒトはそのときはまだ、わからないのです。
で、あとからわかってくれて感謝してくれるヒトもいればそのまま疎遠になってしまうヒトもいる。
そんなものです。


ところで、「人が嫌がること」をすまいと思うと、どうしても他人とは距離をおくことになりますね。
斎藤一人さんはその「距離」も肯定しています。おかげで自分はだいぶ救われた部分があります。
人と「距離」をおくことはなんら悪いことではないのです。それは「逃避」でもないし、内面にこもることでもない。「距離」をおきつつ、ヒトと接することをやめてはいないのですから。


たとえば、精神世界とか新興宗教とかネズミ講とかにハマるヒトというのは。。
それが、自分の内面を見つめるところでとどまっていればいいのですが、「とてもイイことだから他人にもすすめてあげよう!」と思った瞬間から。。
ヤマアラシが「距離」を考えずに接近してくる、接近どころか、体当たりしてくる、という状態になるのです。相手はコトの重大さに気付かない(あるいは気付かないフリをしている)のですが、こちらからみると大迷惑なのです。
いや、大迷惑どころかこっちは大ケガするのです。そして相手は治療代を払う気もない。悪いことしているという自覚がこれっぽっちもないから。


でもそれは、「けしかけられる」こともあるんですよね。
精神世界とか新興宗教とかネズミ講とか、そういうのは、「とてもイイことだから他人にもすすめて『あげなさい』!」と、「信者」に無限にけしかけます。
それはなぜかというと、ただただ、おカネのためです。

抜粋・紹介

仏教が好き!

仏教が好き!

「中沢 (略)微生物から始まって草食動物から肉食動物まで、どんな動物たちも苦しみを取り去って、楽を得たいと願っているのに、それができないでいる。巨大な食物連鎖のなかに生きていると、お腹をふくらませて楽になりたいと、ほかの動物を殺しますが、お腹がいっぱいで楽になったのもつかのま、またお腹は空いてきて、狩りを始めなければならない。それにどんな生き物も年を取る、そして死を免れることはできない。たとえライオンでさえ、年をとればもはや安全ではなく、いったん力を失って倒れれば、ハイエナのような腐肉を食べる動物の餌食になっていく。動物たちには、どうしたら本当の楽を得ることができるのか考えるための「余暇」がないっていうんですね。
人間に生まれたことの素晴らしい点は、食物連鎖を抜け出たおかげで不安や苦しみが少なくなり、本当の楽を得るためにどうしたらよいかを考えることのできる「余暇」が、可能性として与えられている、ということにあります。ところがたいがいの人間は、そうやって与えられているはずの「余暇」を、ちゃんと利用できないでいます。もっとお金がほしいと言ってはあくせく働き、もっといい地位がほしいと言っては、あくせくと学内や社内で政治活動にいそしみ、もっと名誉がほしいといっては、勲章を手に入れるために時間を浪費し、そうでなくともレベルの低い楽を楽しむために、くだらない他人のうわさ話に耳を傾け、娯楽にうつつを抜かしたりしています。何という時間の浪費をしているんんだろう、とお坊さんたちは僕の目をのぞき込むのです。(略)
つぎは自分の人生をじっくり反省してみて、どんなにせっかくの「余暇」を自分が無駄にしているかを、考えさせてくれます。(略)どんなにうまいものを食べても、それは舌の上を通過していくわずかな時間にだけ味わうことのできる、はかない楽にすぎないし(略)お金や勲章は幻影にすぎない。そういうものは、けっして本当の楽を、私たち生物に与えてはくれないのさ、と言って、だんだんと仏教に引っ張り込んでいくという手を使うんですよ。僕はみごとにはまりましたが(笑)」
「河合 (略)たとえば「死んだら楽になる」と言う人があったらどうするんですか。
中沢 (略)チベットのお坊さんはそこでうまい説明をするんですよ。「死んだらたしかに楽になります」と来る。でも続けて、死の瞬間には、いままでの人生のカルマをつくっていたいろいろな結び目がほどけて、ほんの短い時間だけれど、誰でもが安楽浄土を見るという、とても素晴らしい体験をすることになりますよ。だから、たしかに死んだら楽になります。でもね…(略)
そのあとが来ちゃうんですよ。「冥加に悪い」に関係した話です。冥加は生前に積んでおいた善のストックみたいなもので、これがつぎの瞬間に働き出して、死後の意識が辿っていく軌道を決定する力を持っていると、いやなことを言い出します。つまり死んだ直後には、誰でも仏になって、極楽の状態を垣間見るんだけれども、その短い時間に見るものの意味がわかってないと、すぐにつぎの生誕に向かっての軌道に入ってしまうことになるのです。意味が完全にわかっていれば、極楽の状態にとどまっていられる。そうなるともう再生はありません。でも、たいがいの人間は冥加が足りないものですから、うろうろしている間に、あれよあれよとつぎの軌道に運ばれていってしまって、また本当の楽を取り逃がすことになってしまいます。楽になれないわけですね。
河合 面白いね。だから自殺は悪ではないんですよね。そんな損なことをしたらだめだぞ、ということになる。
中沢 自殺は別に悪ではありません。この人生は、別に神様からいただいたものではなくて、カルマが寄り集まってできた自律体なんですから。自殺したからって、生命を下さった神様に対して悪を働いているわけではない。でも、それをやると損しちゃうぞ、という認識法ですね。
(略)人生が苦しいからって自殺をすると、苦しみの根本原因が消滅できないままだから、またカルマが再結集してきて、前よりももっと苦しみの多い生命となって生まれてくる可能性大だからです。こういう考え方って、善悪の基準を持ち込んでないところが、とてもいいと思います。でもこの思考法が有効なのは、再生はある、という条件下でだけですね。
(略)キリスト教の場合は、最後の審判まで待っていなくてはならないわけで、仏教に比べると、死後のイメージは大変スタティックです。しかし神様にもらったものを傷つけるのは悪だとか、生前の行為の意味が裁判にかけられるとか、何となく人間の行為を外側から縛っているように感じられるのですが、仏教の場合はもっと科学的で、こういう法則でものごとは進んでいきますが、その法則をよく理解して損をしないようにして、正しく大楽に辿りつきましょう、と自律的な生き方を選択しなさいと呼びかけているようなところがありますでしょう。
(略)僕はその最初の教えを聞いて、これは科学にも通じるような合理性を持っていると感じました。
河合 ただ、しかしね、仏教では、お釈迦様はそういう輪廻的なことは言わない。
中沢 そうなんです。お釈迦様は再生のことは口にしなかった。
(略)ひょっとするとお釈迦様は人生一回きりと思っていたかもしれない、と思うこともあります。
(抜粋・紹介おわり)

    • 死と宗教観3

私の人生観、死生観、みたいなものは、ムカシから実はあって、「極楽」にいけるかどうかはわからないですが「往生」できる条件はふたつ。
まずは、自己満足していること。これは、思い込みでいいのです。よく言われることですが、「『それなりに』いい人生だったなあ」と振り返ることができれば合格点。
でも、この合格点にたどりつくことすら、「人間」はとても難しいようです。
エンディングで「それなりに」いい人生だったと振り返れるためにはふだんから「それなりに」いい人生にしとかなければならないわけです。最後に「すべりこみセーフ」というわけにはいきません。
ですから、ふだんの生活において、小さな満足感を積み重ね、かつ、小さな不満足感を消滅させてゆく「努力」が必要です。

これについてはいつも書いていることですので、詳細は省略。。
つまり私は常に、「『それなりに』いい人生だったなあ」とエンディングで思えるにはどうしたらよいか、を考えながら生きているわけです。しかも、それはもう、目前とまではいわないが、それほど期間が残されているわけではありません。


自分が満足するかどうか、は独りよがりな話で、ここからが実は大事(かつ難しい)なのですが、「立つ鳥跡を濁さず」状態になっていること。
「子孫に美田を残さず」でもいいですが。
わかりやすいたとえでいえば、わがままし放題の人生で、自分は満足、でも親兄弟に借金残しまくり、ではゼンゼンダメでしょう。

遺言も残し、葬式の準備もしておくのが、いいのでしょうね。
寝たきりとか、呆けてしまうのはできれば避けたいですが、そうなってしまったらしまったで、その状態から死んでしまうのは、ある意味、世話をしているヒトたちの「解放」につながるわけですから、「立つ鳥跡を濁さず」といえなくもない。
寝たきりや認知症というのは、こちらの努力ではどうしようもならない場合があります。


自殺以外の理由で早く死んでしまうのは、仕方がありません。それが寿命であれば。
親より早く死ななければ、それでいいと思います。親兄弟親類縁者を悲しませるかもしれませんが、仕方のないものは仕方ないのです。

ですが、たとえば子どもの養育期間が残っているうちに死んでしまうのはマズいでしょう。それは跡を濁しまくりですからダメですね。
でもまあ、死んで生命保険で残りの養育期間のおカネがまかなえるのであれば、それでよしとしましょうか。。


子どもが、経済的に早くに独立する、というのは、本当に親孝行なのですね。


ということを考えてみると、私の考えは自殺は99%「悪」ですね。ただ、親類縁者、知り合いから完全に断絶された状態でしたら自殺もアリだと思います。ですが通常人間はそのような状態にはなりえないでしょう。

なぜ99%かというと、限りなく寿命に近い自殺、というのはあると思っているからです。「明日死ぬ」ということを悟って、自死ではなくホントに、眠るように死んでしまうとか。。 理想ですね。。


こういうことってもっとおおっぴらに話していいと思うんですけど。