元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「根源的な闇」は見えたか?思考の自己中心化  夢

こうありたいまたは反面教師

  • パラレル・ワールドに対する想像をはたらかせられない

たとえば、自分の視界に入ってこない他人の影の努力とか。。自分が寝ている間に忙しくハタラいているヒトたちの存在とか。。
世の中が、実はアナタがいてもいなくともまわってゆく事実とか、アナタがいなくともヒトは成長してゆく、とか、そういう事実を受け入れることができないヒトがいるわけですね。

ヒトは、アナタと同じように生きているわけではないのです。あなたが寝ている間に、早起きしてジョギングしているのかもしれないし、ダイエットしているのかもしれないし、夜、睡眠時間を削って資格試験の勉強をしているのかもしれない。
悪くいえば、ヒトは基本的に「抜けがけ」しますからね。


思考が「自己中心化」しているというか、表層化しているというか、奥行きがないというか。。
たとえば、ヒトがいきなり何かが上手になったり、他人の家の子がテレビに出たり、という、そのヒトにとっては「寝耳に水」的な状況が発生したときに。。
まず、受け入れられないんですね。ただただ、驚くわけです。「なぜ?」と。
その次に、これが不思議なところなのですが、直で「嫉妬羨望」の感情にいってしまうのです。「ああ、陰で努力してたのね」と。。(「陰」というのは、ネガティブな表現の象徴です)

本来は、直で「称える」方向にいくべきでしょう? それが、なまじっか知っている他人に対してだと嫉妬羨望の方向へいってしまう。。


他人は、「陰で」努力してるわけではないんですよ。「陰」ではなくてたまたまそこはアナタが見えない場所なだけなんです。それは世間的には「陰」とはいわない。
さらに、アナタは視界が狭すぎるのかもしれないのですよ? 他人であれば見えるところも「死角」にしてしまっているのかもしれない。あえて見ていないのかもしれない。

これは、おそらく、幼いころからの思考訓練の不足なのでしょう。あるいは親も同じなのか。。残念ながら。

こういうヒトはきわめて高い確率で「思いやり」もないですから。それは、当然のことです。思いやるというのは思考が「自己中心化」していたらできるはずがないものです。


ところが、ですが。。そういうヒトは、周辺に対する想像をはたらかせることができないのに、なぜか「世界」に対しては敏感なんですよね。。 周辺を思いやれないクセにいきなり「世界」にいってしまうというのは非常にキケンな思想である、と私は疑ってかかっています。

こういうヒトは近所のお年寄りには優しくできないけれどいわゆる「発展途上国」に単身乗り込んで、その国の貧しいヒトたちのために井戸を掘ることはできるかもしれない。なぜならそのほうが「ハク」がつくからです。
それも「ファッション」ですからね。

「世界」に目を向けることが自分の「使命」であると信じて疑わない、という。。誰もアナタを親善大使として選んでいないのに。。


最近、私個人の「使命」のようなものは、周辺にあるに違いない、ということは、おぼろげながらわかってきたのです。

人生観、のような、思想の話

  • 【重要】「根源的な闇」はみえたか?

自分の意識の表層にある怒り、違和感、世の中に対する不満、などなど、ココロの中にその「思い」あるいは「思考」がどんどん溜め込まれてゆくわけです。その数ははっきりいって尋常ではありません。もしかしたら他人よりも多いかもしれない。もともと感受性が鋭いわけでもないのに。。
それらをどんどん書き出し(吐き出し?)て、それらをすべて取っ払った後に、「根源的な闇のようなもの」(by村上春樹)が残り、さらにその闇の向こうには「何か」があるに違いない、と今、信じて「書き出し」を実践しているわけです。

それは現在、ライフワークに近いものなので、早々に結論がでるものではないのですが、最近ふたつ、考えたことがあります。

ひとつは、その「書き出し」をしているときに、何か「奥底」がちらっと見えた、あるいは「タッチした」ような感覚を持つことがあります。
これは、書き出しの最中に「疾走感」を感じることができているときに、現出します。そしてその瞬間の書き出しの1フレーズだけが、自画自賛できるものだったりしますね。(膨大に書き出しているのに、たった1フレーズだけ!)

優秀なモノ書き屋さんというのは、このあたりの「感覚」をコントロールできるのかもしれません。だとしたらスゴいですね。

この、瞬間的に「タッチした」と感じられる「地点」、これが「根源的な闇」の入り口なのかもしれません。つまり、その「地点」だけを疾走感を感じながら書き出していると、いつの間にか、ものすごく深く「掘れる」わけですね? だから「奥底」が見える(ことがある)。

これはまさに河合隼雄さんの言う「井戸掘り」ではないでしょうか。


私の理想は、表面上の土の層をすべて取っ払って、根源的な闇をむき出しにすることなのですが、それは、まず、できるかどうかすらわからない。現時点では、たまに、ピンポイントで深く掘れる(偶然、掘れてしまう)ことがあります。
それだけでもまあよしとしましょうか、と。。

死、あるいは宗教に近い話

続きです。

もうひとつは、まだうまく説明はできないかもしれないのですが、とにかく「夢」を活用しないとダメなんだろうなあ、ということです。

夢に対する「回路」はオープンにしているつもりなのですが、今のところ全然ダメです。朝起きてもゼンゼンおぼえていないし。。ちょっとしたコツというか、技術が必要なのでしょうね。


ところで、「夢」とはなんでしょうか? と、いうことを、たまに考えます。

自分の意識下にはすでにいくつか(あるいはひとつ)の「井戸」がデフォルトで掘られていて、眠るとヒトはそこにアクセスすることができる。ヒトは、眠りについた後に、カンタンに井戸にもぐり込み、「根源的な闇」の向こう側を垣間見ることができる。(起きているときは、井戸を「のぞき込む」ことしかできないのに。。)

その垣間見た結果が、夢なのでしょう。


夢の中は果たしてパラレルワールドなのか否か。それはもう、高校生の頃から考えていることで、未だわかっておりませんが。。
夢を見る、ということは人間に必須な機能なはずで、あえて睡眠とセットになっていることは、事実上間違いないわけですね。

ヒトは、睡眠をとらなければならない、のと同じように夢も「見なければならない」のです。

なぜヒトが眠る&夢を見るのかといえば、生物学上の意味合いでの脳の休息以外に、一般的にいわれていることは、思考の整理のため、ですよね。勉強していて、煮詰まってしまったらいっそのこと寝てしまったほうが考えがスッキリする、というのはよくいわれるハナシです。

思考を整理するための夢なのであれば、なぜ夢というのは「映像」でなければならないのか?
なぜ、「根源的な闇」の向こうの「映像」を自身に再投影して、半強制的に自身に「見させる」必要があるのか?

ここに意味は、あるのです。あるからこそ、「映像」を自身に見せているわけで。。

そして、夢分析とか、よくありますけども、ホントウは夢というのは自身に再投影して完結するものであって、それに対して分析を加える性質のものではありません。
夢分析は血液型とか占星術とか、そういうのと似ていますね。
自身が見た夢を、そういう分析本と照合して誤った解釈をしてしまう。。それをやってしまうと、「根源的な闇」から再投影した意味がなくなってしまうのです。まァ「ブチ壊し」ということです。

夢は、「みた」で終わらせておけばいいのです。ですが。。ヘンな分析を加えるのはよくないのですが、まずは、おぼえておかなければならないと思うのです。


私はおそらく河合隼雄さんの影響を多大に受けていますが、彼の教えで重要なのは、夢は予知夢であると思ってはいけない、というところですね。もちろん、前述したように、自身がうかつに分析をしてはならない、というのは大前提としてあります。
他人が、客観的に分析をするのであればよいのです ただし、その過程で本人にはゼッタイに分析した見解を述べてはならない。


夢は「結果」であって、それは、「あー、そうなんだー」という感じであたかもエンターテインメントのように楽しめば、それで十分なのです。素直に受け入れることにより、身体に「しみ込んでいく」といいますか。。
それが、自身をつかさどる「脳」が自身にあえて夢を見させる目的なわけですから。

夢に対して感情を殺せ、といっているわけではありません。夢を見て、感じるものはありますよね? それは、素直に感じたままにしておけばいいのです。そこでうかつに、「あー、そういえばあの本には、空を飛ぶ夢は逃避願望をあらわしている、って書いてあったなあ」などと、余計な引用をいれないこと。
空を飛ぶ夢を見たときに、逃避願望が顕在化する、ということではないのです。ヒトには必ず逃避願望があるのです。同じように、無限に願望を持っているのです。それはあたりまえのことです。

空を飛ぶ夢であれば、爽快感とか、恐怖感とか、疾走感とか、いろいろ感じているわけですよね? それを大事にするのです。「楽しかったなあ」とか「怖かったなあ」とか。。

夢の中には、たまたま、結果的に予知夢的なことは起こりうるかもしれません。でもそれは、切り株の前で居眠りしていたらたまたまウサギが走ってきて株にぶつかって死んでしまい、その日は豪華にウサギの肉を食べることができました、というハナシと同じです。たまたま、なんです。
翌日からそれに味をしめて、ずーっと切り株の前で待っていましたが、二度とそこに動物がぶつかることはありませんでした。。 というオチです。

もう獲物はあらわれない、と思っていると忘れたころに現れたりしますけどね。。そこがムズカしいところですが。。 夢も同じです。


エンターテインメントで思い出しましたが、夢というのは楽しいのとか悲しいのとか殺されるとか、いろいろありますよね? 夢は自身の現実のイベントを「ある程度」投影するわけですし、それを毎日夜に見るわけですから、一生続く、自分だけの「レイトショー」だと考えておけばいいのです。
一生続くのですから、レイトショーを楽しみにしたいのであれば(毎日毎日自身が殺されたくはないでしょう?)、リアル社会でもポジティブシンキングでいることです。そうすれば、それがある程度夢として自身に再投影されるわけですから、夢も少しずつポジティブになり、夜が楽しくなり、ますます自分の生活も豊かになり。。と、人生が好循環してゆきます。

  • 夢(死)

ヒトは、老後になると、夢の中で、死を示唆するような事象はゼッタイに起こっていると思います。だから、自身ではなく信頼できる他者がしかるべき手段で夢を分析すれば、(しかも、それを本人にフィードバックしないという条件で)おおよそその本人の死期というのはわかってしまうのでしょう。

もちろん本人も、なんとなくわかってくるのでしょう。夢の中で、先に逝ったトモダチが頻繁に出てくるようになったりしたら。。 感じるものはあるでしょう。

ですが、現代人は、文明の発展とともにそっち方面の回路をものすごく鈍感にしているわけですから、今後どうなるかはわかりませんが。。


ヒトは、死ぬとその「根源的な闇」の向こうに、還ってゆくわけですね。ですから、死ぬ間際の夢というのは、その準備段階のような位置づけであるわけで。。ぐっと闇の向こうが近づいてきたり、とか。。

自分は、そういう理由で、早いうちにその「根源的な闇」を垣間見ておきたいわけです。そうでないとコワくてしかたがない。でもそう感じるのは、この現代社会では珍しいのかもしれませんね。
だいたいのヒトは逃げちゃいますから。。 「当分死なない」と思ってますからね。まァそれはagreeなのですが、死を「なかったもの」とするのはどうかと。。