元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

知らないのに「ちゃん」付け 今はだいぶラク

本来の日記部分

久々の自転車通勤。。片道約8キロ。爽快感もありましたが疲れました。。
もうやめときます。

こうありたいまたは反面教師

  • 知らないのに「ちゃん」付け?

著名人をまるで隣人のように感じて、たとえば小泉前首相を「純ちゃん」とか。。

ものすごく違和感があるんですよね。
自分はなるべくならば「さん」付けで呼びたいものです。呼び捨てもいけないと思います。
著名人であろうと、他人には変わりありません。

なぜ、隣の住人と挨拶すら交わさないのに、テレビに出てくる遠いヒトには親しみを感じて「ちゃん」なのか。。
あらためて、なんだかオカシな世の中だなあ、と思いました。

そして自分はなぜ、その風潮が頑なにイヤなのだろうか。


自分は、庶民からの「異化」を図っているわけですから、そのためにまず行っているのが、自分の「違和感アンテナ」を研ぎ澄ますことなのです。
違和感=>反面教師(違和感を感じるような行為は、自分はしない)=>自分の人間的成長
という図式なのです。

その図式に沿って、少しずつ「長い階段を上」っていると(by小沢健二)、その過程でエラそう」と攻撃してくる輩がいるわけですね。そういうヒトはまさに私の反面教師なのです。ですから、反面教師を見分けるのはカンタンです。
私に、というよりは、こつこつと、少しずつ、成長を遂げる、というような人生を是とする人種に対して敵意にも似た嫉妬羨望をおぼえるヒトたち。

「庶民」というコトバを選ぶのも間違ってるのかな? でもサヨク的な「市民」というコトバはすごくキラいだし。。

「エラそう」とか言われるということは、そのヒトにとっては私が「脅威」と考えているのかもしれず、それはそれで悪いことではないのかもしれないなあ、と。

自分について

ムカシこの日記で、中学校の頃は楽しかった、ということを書きました。

今は、「楽しい」というコトバはあたらないように思えますが、「ラク」になってきたように感じています。
(そういえば、大学を出てから、ココロの底からハラを抱えて笑ったことがあるだろうか。。)

なぜ今、ラクかというと、おおっぴらにマジメに生きていいから、なんですね。

私のようなマジメな人間でも、反抗期のころには、反抗期特有の衝動に苛まれながら、世の中や親や先生に行動でもって反抗していたのですが、それは、今考えればマジメ人間にはキツいものがありましたね。

オトナになると、「マジメ」が個性になりうる、と気づいたのは最近です。それを知ってから、ラクになれたように思えます。(【重要】マーク)

ただ、「マジメ」であることによって批判されることはないだろう、と考えていたのですが、「反抗」もしていないのに「マジメ」人間に対する批判があるのは、想定外でした。
それに対して言いたいことはたくさんあり、ずっと日記に書き続けていることなので、おいといて。。


中・高のころは「マジメ」とはすなわち、クラスの中に埋没している「ガリ勉くん」であり、それは個性とはなりえませんでした。だから、マジメにフザケたりマジメに反抗したりしていたわけです。それは、ものすごくムリがあることです。

ホントは自分は「ガリ勉くん」のグループで、図書館で小説について語ったりしていたほうが性にあっていたのかもしれない。
でも、そこに埋没せずに、マジメにフザケたりしていた経験は、今になって役立っているような気がします。今自分が「インディペンデントでありたい」と考えるルーツになった、といいますか。。

それと、自分が異常なほど「フィールド・ワーク」にこだわるようになったのも、この時期の行動がルーツなのでしょう。


高校を出て大学に入るために上京してきたときは、田舎の呪縛から解放された感はあったのですが、今度は、バブリーなライフスタイルなり、「トレンディドラマ」なり、そういった「時代の呪縛」に常にとらわれるようになってしまいました。
その「時代の呪縛」は、結局、ふりほどくのに相当な時間がかかりましたね。この呪縛にとらわれているうちはおそらく精神的に「ラク」ではなかった。

大学を出てからしばらくは決定的におカネがなかったので、精神的にラクになるはずもなく。。
でも、大学を出てから、今でいうフリーター的生活を体験したおかげで、遅かりし「青春」を謳歌できたような気がするのです。という意味では楽しかったですね。

貧乏生活であってもそれを苦痛ではなく「青春」と思い込むというのは、おそらく自分の自助努力の成果もありました。この時期は、親や親戚に「就職しろ」的なことをガンガン言われ、プレッシャーをかけられていた時期ですし。


そんな遅かりし青春も、突然何の前触れもない「入院」によってぶったぎられましたが。。
そして、しばらくは物理的に社会復帰することすらできず。。

そこから現在までは省略しますが、とにかく、ラクになるにはまず、カネが自由になることですね。そこに至るまでに非常に時間がかかってしまいました。

「カネが自由になる」といっても、別に豪遊するわけではありません。「美味しんぼ」から引用させてもらえば、「いつでも、とんかつを家族で食べにいけるぐらい」ということです。
これは、自分の独自解釈では「たとえ給料日前であっても」ということです。
とんかつですから、最近安くはないですから¥2,000*家族分、ぐらいでしょうね。そのぐらいのお金が、いつでも自由に使える。

再録・継続

  • 仕事人間で何が悪いか(20070409)メルマガ

まるかんの斎藤一人さんのコトバは、なるほどと考えさせられるものがたくさんあります。
そのなかのひとつですが、僭越ながら自分なりに要約しますと。。
・出世をする人というのは、自分に必要なことに興味がある
・反対に、出世をしない人というのは、自分の仕事に必要のないことに興味や関心を抱いてしまい、本業に割く時間が少ない
・「仕事を好きになる」ということは、常に仕事のことを考えること
・趣味と仕事が一体になった志向を持っている人は、常に本業である仕事のことを考えているわけだから、当然、その仕事で成功する可能性が非常に高まる。

といったようなことです。

自分のことは完全に棚に上げますが、この考え方は納得できます。

仕事も充実、余暇も充実、なんて考えているハンパな人間は出世しないということです。
そして、常に仕事のことばかり考えてしまうような自分に合った楽しい仕事を、「自分で」見つけなさい、ということです。

嫌な仕事であれば、それを年中考えていたら死んでしまいますからね。。 斎藤さんはそういうことはすべて「無駄」と切り捨てているようです。

「仕事人間で何が悪いか」ということですよね。この飽食のご時世で、打ち込めるものがあるだけ幸せじゃないか、ましてはそれにより報酬をいただけるのであれば素晴らしいことではないか、と。

いつの時代から、余暇優先になってしまったのでしょう。余暇にどんどんお金を消費させようという、マスコミや企業側の策略であることに気が付かずに。。