ゆとり教育の解釈
学習指導要領に「ゆとり」をもたせるっていうのは総論では正しかったのだと思う。
でもな、学習にゆとりが出来た分、その空いたスペースにどんどん子供に「負荷」を与えるべきだったのだ。
子供に対して与える負荷を、子供ごとにカスタマイズさせてあげるのが親の役目だったはずだ。でも、教育機関も、当の親自身も、それをしなかった。オトナがその責任を放棄した。そこが、不幸だったんだ。
授業時間、学校に拘束される時間が減ったらバカになるのはアタリマエだ。
もしかして、空いた時間で子供に「自主的にやるべきことをみつけなさい」というスタンスだったのか? オトナが子供に丸投げしていたのか? だとしたらホント、オトナのほうがバカだよねえ。
「個性」を尊重する空気は、すでにできていたはずだ。たとえば、運動神経のよいヤツは勉強をさせずにスポーツに死ぬ気で打ち込ませる。勉強がバカでもスポーツのほうで子供同士で尊敬される、オトナも評価する、っていうのはだいぶできていた。
そういうヤツは、中学生だったら推薦で高校にあげてやりゃいい。学費も援助してやればいい。それが、ごほうびだ。
小説家になりたいヤツはガキのころから死ぬ気で文章書かせりゃいいんだよ。体育なんかやらせなくていい。理系の教科なんかやらせなくていい。
そういうヤツは名門大学の文学部に推薦でいかせりゃいい。
そういうことを、ゆとり教育ではしたかったのではないか? そういうパターン別に教育カリキュラムをカスタマイズするっていう、ものすごく面倒くさい仕組みを、教育機関のヤツらは一旦「引き受けた」んじゃねえのか?
それを、やらなかったんだろ? 猛省するのは誰だよ。