元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ここ数年を振り返って

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40代にさしかかってしばらくした頃から、あれ? 自分は人生への不満がほとんどないなあ、ということに気付いたのです。

もっとも大きいのは、年収。

が、上がったのではなくて、「まぁ質素ではあるが家族で生活もできてるし、このぐらいでいっか」と思えるようになったこと。

ここの「こだわり」が氷解さえすればあとはぜんぶ小さいこと。「もっと!もっと!」と(収入について)自分を追い込むのをやめたこと。


次に大きいのは、引越し。

前の団地住まいも僕だけは不満はなかったのですが、やはり家族には。。(狭)

というわけで、僕ら一家は住み慣れた、心地よい団地を出、以前より「ひと部屋多い」マンションに引っ越したのでした。

引越しプロジェクトを何とか完遂させたら、ますます不満が減りました。

「不満」というよりは、「心の中のネガティブ要素」というか。

僕は団地の間取りで満足していたわけだから、そこにさらに一部屋増えたわけですから「広くなった 幸せだなあ。。」と。

家内は「家を買いたい」なのでしょうけど。申し訳ないけどそう思っているうちは一生幸せにはなれないでしょう。。

不満が減ったことは、それはそれで悪いことではないのですが、

かなり不安にはなりました。「あれ、これで上がり?」という。。

でもそれは「杞憂」だということが、考えなおしてみてわかりました。

その境地に至ったのは、つい最近。

この時点で「上がり」であっても、人生は続くのですね。どこまでもどこまでも。死ぬまで。

人生のそれぞれのマイルストンでやりたいことや、「こうありたい」というのは残っているのです。

僕がたとえば40歳でやるべきことをやってしまったとしても、50歳でやるべきことは残っている。

あたりまえです。50になっていないのだから。

それぞれの世代でかっこいいオトナになりたい、という思いは未だに強いのです。

上がって終わりではなく上がって次の始まり。

と、いうことは、次を始めるためには都度上がらなければならないんだあ。

節目節目で「上がらない」人はタイヘンだなあ、と。よくわからないけど「いつ死ぬんだろう?」みたいな。