元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「全人的存在」の(私が考える)例

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カーネギーの名著「人を動かす」の中のたとえ話に、私が考える「全人的存在」のイメージにぴったり合致する実在の人物がいました。


このたとえ話を僕なりに咀嚼してご紹介します。


とある人(お客さん)が百貨店で背広を買いましたが染料が落ち、ワイシャツに色が移ってしまうのでその服をもって百貨店に話し合いにいきました。



1.買った時の店員1


に事情を説明しようとしたが、店員1のコメントは「これまで自分は何百何千と同じ服を売ったが、苦情にみえたのはあなたが初めてです。」と話をさえぎられる。


⇒「ウソじゃねえの?」と


2.仲裁に入った店員2


は、店員1をかばいつつ「このての服はみな、はじめのうち色が落ちるし、この値段だったらこれぐらいの品質ではないでしょうか?」とやんわりと


⇒「安物買いしたクセに文句言うな」



客もさすがにブチ切れそうに。ここで「支配人」登場。



3.支配人の振る舞い


(1)とりあえずひととおり、怒っている客の話をさえぎらずに聞く。


(2)支配人が客の盾となり、店員1、2と議論。お客様のいうことに間違いはないので、今後のこの品の販売を中止するように指示。


(3)客に向かい、商品の質および店員の非礼について侘び、「どうなさいますか?(返品しますか?)」と。



このコミュニケーションの中でお客さんは落ち着きを取り戻し、話し合いの結果一旦持ち帰り、1週間様子見することになりました。1週間のうちにまた不具合が起こったら、お客さんのお気に召す品のどれでも交換してよい、という条件。


結局、不具合は発生せず、そのお客さんは引き続きその百貨店の常連であり続けました。


カーネギーは、ここで書いた1.2.の店員について「こういう店員は一生店員のままで終る」と、辛辣です。また、この支配人が支配人となったのは必然である、と。こういう判断と振る舞いができる人間が店員のままでいることはありえず、同様に1.2.のような人間が支配人になることもあり得ない。





かつて「技術者」あるいは「理系」と大きくくくられていた人たちも、3.の「支配人スキル」を身につけなければいけない時代になってきたのでは? というのが僕が年末からずーっと書いていることです。





「一生技術者のままで終る」という生き方が美徳である、という考え方があります。それは、いつの時代も一面では正しい。


でも、かつては、「一生技術者のままで終る」というのは1.あるいは2.のレベルでよい、ということでしたが、今の時代は、一生技術者であるために3.の支配人スキルが必要なのです。


1.2.のままでは、うまく立ち回れば仕事にあぶれないかもしれないですが、仕事の内容としては「技術者」ではなく、技術者の下請けの「作業者」になってきます。それでもよいのだ、と納得されているのであればそれでもよいですが。。


「技術者」と「作業者」はまったく違うのです。





実は、そんなに難しい話ではなくて、まずは人の話をちゃんと聞けること。


と、このたとえ話は教えてくれています。


そこが、入り口です。そして、本当に人の話をちゃんと聞けるようになれば実はそこがゴールなのかもしれないです。


それが、非常に難しい。でも、前回も書きましたが、「人の話をちゃんと聞く」というのはスキルでもなんでもありません。


誰でもできるはずです。でも、なぜか「エンジニア」や「理系」と呼ばれる人たちには、とても難しい「スキル」であるらしい。





相手の話が終わらないうちから遮って反論するなど、論外ですよね。