元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「全人的存在」というキーワードを深堀りしてゆく

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今回言いたいのは、「スキル」の時代も終りだよ! ということ。「終り」というのは、トレンドではなくなるということ。肉体労働ももちろん現代社会で残っているし、スキルも残ります。

でもトレンドは、「全人的存在」にシフトする。

僕は以前から、これからはゼネラリストの時代なのかもな、と思っていたのですがどうも言葉に違和感があったのです。なぜなら、この国では「ゼネラリスト」という言葉の意味合いがとてもネガティブだから。

「なんでもそれなりにこなす(でも、ただの器用貧乏)」みたいな。

これからは「ゼネラリスト」ではない。「全人的存在」という言葉が、ぴったりきたのです。

肉体とかスキルとか、そういう局所的な職能ではなく「全人的存在」が問われる。「全人的存在」が優れた人間が、求められる。求められるということは、いいカネをとれるということです。

我々は、たとえば身体さえ鍛えておけば雇ってくれるとか、特定のスキルだけ磨いておけば引く手あまたとか、そういう時代ではなくなるという意味で、難しい時代ですね。

自分の存在自体をアゲてゆく、というのは、その手法は複雑怪奇であります。

「全人的存在」というのは、以前は経営者に求められていた資質だったのに。。今では末端のIT土方にまで求められる。

これをアゲてゆくにはどうしたらよいのか? といえば、実は生まれてから始まっているのです。「親の、どのような方針のもと、どのように育てられたか?」が問われるわけです。

もちろん後からリカバリーも可能なのですが、どのように育てられたかはかなり大きい。

という意味では、一部はリカバリ不可能。中学校ぐらいまでにどのように育てられたか? なんて、過去に戻ってやりなおしというわけにいかないので。。

「どのように育てられたか」が大事であって、親の収入とは200%比例しません。(反比例もしない)「親が、どれだけ正しかったか?」と、そういうことだから、自分の全人的存在というのは親ぐるみであります。

さきほどリカバリー可能と書きましたが、それは「オトナになってからも勉強する気持ちを持つ」という前提です。おおよそ、良く育てられた人間はオトナになってからも向学心はあるから心配はないのですが、そうでない人は、オトナになってより強い意志をもって、勉強しなければなりません。

「勉強といわれても!(何したらいいんだよ!)」なんて逆ギレするようでは、残念ながら。。という感じです。

子供のころ親に「良く」育てられなかった人も、社会に出て勉強することにより、親に感謝することができ(そして、産んでくれたという絶対的事実に)その時点でリカバリー完了、なのかもしれませんね。言い方をかえればそこからやっとスタートライン、みたいな。。