元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

『致知』2012年11月号

ameblo.jp

「患者さんのベッドサイドに立つ資格」
紙屋克子(筑波大学名誉教授)
卒業後はまだ新しい領域だった脳神経外科を選びました。
半年くらい過ぎたある日、私は経管流動食(意識障碍などで口から食事のできない患者さんに
管を通して胃に栄養食を入れる)を取り替えるために病室を順番に回っていました。
最後の部屋に入ると、脳腫瘍の術後、意識が回復しない27歳の患者さんのベッドサイドに、
私と同年代の若い奥さんが3歳の女の子を抱き、5歳の男の子の手を引いて立っていました。
私が作業を終えたちょうどその時、その人が
「こんなのは治してもらったことになりません!」
と、本当に激しい口調でおっしゃったのです。
私はご家族の悲痛な叫びを初めて聞き、大変な衝撃を受けました。

その当時は、意識に障碍のある人の命を維持することにも大変な努力が必要だったものですから、一所懸命頑張っていた仕事に対して、そんなことを言われるとは思いもよりませんでした。

「確かに命は助けてもらった。でも他人である看護師さんと妻の私を区別できないこの人、二人の子供が“お父さん”と呼んでいるのに応えないこの人を、家族の一員として受け入れて、私たちはこれからどんな人生を歩んでいったらいいんですか」って……。

脳腫瘍を摘出して命を助けたのは医師です。でも彼女にとっての「治る」という意味は、自分のところに夫が帰ってくることであり、二人の子供に父親が帰ってくることだったのです。
私たち専門職が考える治療のゴールと、ご家族の考える健康のゴールには随分大きなギャップがあるのだと気づかされました。
その時、私は初めて看護本来の役割は何か。何をすべき人間として、医師とは異なる資格を持って患者さんのベッドサイドに立っているのかと考えたのです。
すると、彼女の発言の中にヒントがあって、命を助けたのが医師ならば、看護師の役割はこの家族のもとに夫と父親を帰すこと。
仕事をしたり学校に行ったり、そういう役割を持つ存在として、その人を社会と家族のもとに帰すのが看護の仕事だと思い至ったのです。