元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「悪いことしたら謝りなさい」


「悪いことしたら謝りなさい」|龍澤ヒデアキのバックドア

日本人は進化を求めてきたわけですよね。
工業化社会、インテリジェントビルが立ち並ぶ社会、モータリゼーションが極度に発達した社会。我々がコドモの頃見た、手塚治虫が描く未来を目指して。。
つまりそれは、排ガスがあろうがなかろうが、オゾン層がどうであろうが、「自然」とは対極に位置する、人間「だけ」が住みやすい社会(イコール「環境が悪い社会」)を目指してきたわけです。

それなのになぜ、コドモにだけはユートピア(つまり、緑いっぱいの大自然でのびのび育てる)を強要するのか?
そこにはギマンがあります。そのギマンは常に私を不愉快にさせます。

(東京の)コドモは、結局、コンクリートジャングルの中で生きざるを得ない。そういう環境をつくったのは人間(大人)でしょう?

なぜ諦観して、コンクリートジャングルの中で生きる智恵を積極的に与えないのか?

(東京で)「教育」の中で発生する「緑」は、常にコンクリート共生している「緑」です。屋上庭園しかり、東京における稲作体験しかり、公園への遠足しかり。。

それは、肯定するのです。コドモは、結局箱庭で生きるしかない。でもそれを、隠そうとする風潮があります。

たとえば、おカネや税金について早い時期からコドモに考える機会を与える、というのも、「コンクリートジャングルの中で生きる智恵」の一環ですね。


前にも書きましたが、大自然の中でのびのび育ったからといっておおらかでスナオなコドモになるわけではないのです。
そして、大自然のサバイバル術を身につけたからといって、今の日本で役に立ちますか?
「自然の中でのびのび育てる」こと自体が単なる流行、ファッションではなかったですか? その自覚はありますか?

良い子に育つかどうかは、いつの時代も親の努力と力量にかかっているわけで、環境が子育てに及ぼす影響は微々たるものです。まずは親から、という自覚がないのではないですか? 環境が悪いから、という言い訳をつくろうとしていませんか?

「環境」というコトバから、「トモダチ」を連想する方もいるかもしれませんが、「トモダチ」は田舎のほうが質が悪いかもしれませんよ。
なぜ親は私学に入れようとするか? なぜ、様々な人種のコドモが集まる公立を敬遠するのか? この事実にもう一度目を向けないといけません。

私は田舎育ちで、「都会っ子」に憧れたので、それを痛いほど実感してきました。
国民的ドラマである「北の国から」はそれを残酷なまでにあらわしてくれています。コドモをのびのび育てたい、と大自然である富良野に引っ越した結果として、純と蛍はどうなりましたか? あれは幸せな結末といえるのでしょうか?


おっと、だいぶ脱線してしまいました。。

なんだかこのギマンというのは。。
「悪いことしたら謝りなさい」という教育を受けて育っても、オトナになって接触事故を起こしたときに「ゼッタイ謝ってはならない」っていう暗黙の交渉ルールがあるのを知らずに、馬鹿正直に謝る人間が損をする、という状況にとても似ているように思うのです。

コドモが受ける教育と、オトナ社会のルールとに連続性がなく、完全に教育と矛盾していて教育が意味をなさない。
それを今、問題にすべきなのですね。