隣の芝生は青い→丘の上の豪邸の庭は広い
僕は常に。。この15年ぐらいは、振り返れば、全力で生きてきたような気はしますね。
。。いや、20年は超えているかもしれない。
そこは、誇れるかな、と。
方向性は、間違っていたかもしれない。けど、全力ではあった、と。
つねに、「ないものねだり」ではあったかもしれません。まだ若かったですし。。
自身の現状に満足せず、常に隣の芝生が真っ青で、うらやましいが故に(こっそりと)自分ちの芝生も青くしようとし。。
ただ、その局面局面で、行動を起こしたということ、その積み重ねが、今の自分につながっているのだろうなあ、と。。
「うらやましい」が、ヒガミにはならなかった。ただ、指をくわえてみているだけでは、なかった。
それにしても、自分の生活にそれなりの満足感はありつつも、常に「遠くの」芝生が青くみえるというのは、ありますが、その考え方に矛盾はあるのでしょうか?
それは、ひとつのテーマとして、考えていかなければならないと思っています。
自分ちの芝生ももう十分、青々とはしていることは承知しているのだけれども、遠くをみると、丘の上の豪邸にはすばらしき庭が広がっている。
整備された芝生(腕の良い芝刈り職人を雇っているのでしょう)にコドモたちが遊び。。
植木なども見事に庭に調和している。
現代社会に一生懸命生きているとどうしても、自分の「土俵」に引きこもることはできず、近くも、遠くも視界に入ってきてしまう。カンゼン無視することはできない。
そこでどう、折り合いをつけてゆくか。。