元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

隣の芝生は青い→丘の上の豪邸の庭は広い


2012-06-04 - 【ひとり公論】([新庶民]論)

僕は常に。。この15年ぐらいは、振り返れば、全力で生きてきたような気はしますね。

。。いや、20年は超えているかもしれない。

そこは、誇れるかな、と。

方向性は、間違っていたかもしれない。けど、全力ではあった、と。

つねに、「ないものねだり」ではあったかもしれません。まだ若かったですし。。

自身の現状に満足せず、常に隣の芝生が真っ青で、うらやましいが故に(こっそりと)自分ちの芝生も青くしようとし。。

ただ、その局面局面で、行動を起こしたということ、その積み重ねが、今の自分につながっているのだろうなあ、と。。

「うらやましい」が、ヒガミにはならなかった。ただ、指をくわえてみているだけでは、なかった。

それにしても、自分の生活にそれなりの満足感はありつつも、常に「遠くの」芝生が青くみえるというのは、ありますが、その考え方に矛盾はあるのでしょうか?

それは、ひとつのテーマとして、考えていかなければならないと思っています。

自分ちの芝生ももう十分、青々とはしていることは承知しているのだけれども、遠くをみると、丘の上の豪邸にはすばらしき庭が広がっている。

整備された芝生(腕の良い芝刈り職人を雇っているのでしょう)にコドモたちが遊び。。

植木なども見事に庭に調和している。

現代社会に一生懸命生きているとどうしても、自分の「土俵」に引きこもることはできず、近くも、遠くも視界に入ってきてしまう。カンゼン無視することはできない。

そこでどう、折り合いをつけてゆくか。。